高校の甲子園出場と市民スポーツの広まり

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長野市高校野球界のめざましい発展がみられたのは五十年代である。五十一年(一九七六)七月の県大会決勝松代高校対松本商業高校は、四対五で松代高校がやぶれたが、名勝負となった。そして、五十七年から六十年まで連続四年間、市内三高校が甲子園出場という輝かしい歴史がつくられた。

 五十六年秋の北信越大会決勝で、長野高校は延長十三回石川星稜高校に四対五でやぶれたが、その粘りづよさが評価された。「ついに実った。昨秋熱闘の果てに苦杯をなめ、その悔しさをじっと胸に飯綱おろしの中を黙々と走った努力が。そして、長高野球部の合言葉。〝大きな仕事・大きな苦労・大きな心〟の斉唱」(『信毎』)は、三十七年夏以来の快挙である。五十七年選抜高校野球大会推せんの理由は、①文武両道をモットーにした品位あるチーム、②チームワークの良さの二つであった。しかし、甲子園では、一回戦二松学舎附属高校に〇対三でやぶれた。

 五十八年七月三十一日、県大会決勝で飯田高校をやぶった長野商業高校は、十四年以来八回目の甲子園出場を決めた。四四年ぶりの栄冠であり、四〇〇〇人の応援団が甲子園にかけつけたが、優勝候補沖縄興南高校と対戦し、延長十回一対二でやぶれた。


写真89 平成5年夏の甲子園へ長野商業高校出場 (『信毎』)

 五十九年夏には、野球部発足七年目の篠ノ井高校が、秋の覇者丸子実業・春の長野商業・長野高校をやぶり初優勝し、甲子園初出場の快挙を成しとげた。一回戦で沖縄水産高校と戦い〇対四でやぶれたが、若いチームの活躍に地元篠ノ井はおおいにもえた。


写真90 甲子園で入場する篠ノ井高校

 翌六十年春には、松本商業・長野高校の二校が全国高校選抜大会に出場している。長野高校三六人の部員は「三訓」を復唱し、三年ぶりの甲子園出場をよろこんだ。一回戦明野高校に二対四で敗れたが、故広岡監督の精神野球の魂が引きつがれていった。

 このように野球熱が高まった背景には、一般市民・青少年スポーツの広まりによる底辺拡大効果があげられる。早起き野球大会は、年々参加チームが増加し、四十八年(一九七三)には、地域チームや職場チームをはじめ市会議員のチームや飲食店の常連チームなど二七八チームがあり、五十二年には三一六チームにもなっている。

 五十年、身体障害者施設長野若槻園にも野球チーム「コロニーズ」が結成された。身障者八人と福祉工場で働く身障者でない若者七人でチームをつくり、東長野病院と練習試合もおこなっている。夢は早起き野球連盟に加盟することであった。五十三年には、長野市で初の身障者第一回親善野球大会が開かれ、若槻園はじめ、北海道・沖縄・東京・青森から七チーム一〇〇人が参加した。

 健全育成を目的に盛んになった少年野球であったが、四十年代から小・中学校軟式野球の衰えがみえはじめた。市内一八中学校で軟式野球部があるのは四校だけであった。そこで、長野市は四十九年三月十六日、「長野市少年野球連盟」(軟式)を結成し、八一チームが加盟した。連盟の目的は、①交流試合、②技術・体力の向上、③指導者の育成であった。篠ノ井青年会議所も軟式野球復活に力をいれ、五十一年八月川上哲治を招き、川上少年野球教室を開いて底辺拡大をはかった。五十三年八月には、信毎杯第一回長野市中学野球大会が開かれ、中学野球部復活を目指して一八チームが参加した。

 硬式のリトルリーグでは、四十九年五月第一回長野県選手権大会で「オール長野」が勝ち、八月には「長野ライオンズ」が、カリフォルニア州サンマリノ市「ポニーリーグ」と対戦している。五十一年十月第一回リトルリーグ信越連盟秋季大会では長野が優勝した。

 水泳も市民スポーツとして広まり、女性水泳教室が城山・茶臼山(四十八年七月オープン)・保科温泉(四十八年八月オープン)各市民プールで開かれている。さらに、新たな市民プールの増設もすすみ、犀南福祉(五十年六月)・松代(五十年八月)・北部(五十三年八月)が完成した。長野運動公園水泳場も、「スポーツ都市宣言」をした五十年六月十五日に開かれ、五〇メートル・飛びこみプール以外に室内プールもできた。ここでは通年で女性水泳教室も開催されている。


写真91 運動公園プールで泳ぐ女性たち

 底辺拡大や市民の体力づくりのために設けられた市民体育の日(毎月第三日曜日)であったが、無料開放されたのは、四十八年当初体育館のみであった。五十三年四月からは、市民プール・市営テニス場・陸上競技場にも開放が広げられた。五十四年には、長野市大合併前年の四十年以来、一四年ぶりに長野市民水泳大会が復活した。また、市立保育園三ヵ所(信田・豊栄・西条)にプールが新設され、小学校と合同で使う後町をふくめて、市内全三九園でプール利用ができるようになった。これにより幼児、女性、一般市民へと水泳が普及するようになった。さらに、市民の憩いの場となる総合レクリエーションセンター「サンマリーンながの」(大豆島)が、六十年十月二十三日にオープンした。清掃工場の余熱が利用され、流れるプール・波のプール・スライダープール(三〇メートル・五〇メートル)が人気を呼んだ。開館二週間で入場者二万人、六十一年一月には一〇万人を突破した。

 陸上では、待たれていた市営陸上競技場(東和田)が五十一年四月に完成した。収容二万人、全天候型の公認陸上競技場で、同年の高校総体会場として利用された。五十年ころからは各地区の早朝マラソン熱が高まり、五十一年六月には若槻・伊勢町・東之門・横山・宇木・若穂・長野の走ろう会が合同大会を実施した。スポーツ都市宣言一周年記念としておこなわれ、丹波島・長野大橋間で競われた。こうした市民ランナー熱も後押しをし、五十八年十一月二十日、伝統の県下縦断駅伝大会では、長野市が初優勝している。これは五十八年市政十大ニュースでも第十位にランクされた。


写真92 県下縦断駅伝で長野市初優勝

 四十六年に開講した市の女性テニス教室は、その後も人気が高く、テニスブームが到来した。五十二年には、市営テニスコートとして運動公園(東和田)にクレー(粘土)一〇面、茶臼山に三面、保科に二面、計一五面が新設された。硬式テニス教室も誕生し、五十三年六月には、城山に硬式用全天候型コート四面が完成した。五十四年には夜間硬式テニス教室が開講し、五十五年には女性硬式テニス教室初の大会もおこなわれている。テニスコートの増設は、その後もすすみ、五十七年には大豆島一二面、篠ノ井一面、飯綱三面、真島(全天候型)二面がつくられている。

 五十年ころには、女性や少年・少女のスキー、スケート教室の人気も高まり、五十二年十二月には市スキースポーツ少年団が結成された。五十四年には女性弓道教室も開講され、車椅子利用も可能な新弓道場が東和田に増設された。少年相撲も地域に根づき、西和田では七〇年つづくお盆の少年相撲大会が、西和田神社で開かれていた。ここでは一日三番、三日九番の取り組みで優勝を決め、子どもたちだけで運営される伝統であった。四十九年六月には、若槻上野に二〇〇〇人収容の本格的市営相撲場もつくられている。また、通明小学校では、全校で相撲体操をして体を鍛えていた。

 市のスポーツ教室は、健康ブームとあいまって、ますます人気が高まり、四十八年には、①若返りスポーツ教室(老人)、②夜間スポーツ教室(勤労者)が新たに開講され、③少女バレー、④少年・少女ミニバスケット、⑤女性テニス、⑥婦人水泳、⑦婦人スキー・スケート、⑧婦人スポーツの各教室が盛況であった。さらに、地域の要望にこたえて、川中島公民館で巡回女性スポーツ教室もスタートした。これらのスポーツ教室を発展させるため、市は技術指導・会場確保につとめ、運営・練習等を自主的にやってもらうスポーツクラブ(バレー・バスケット・テニス・バドミントン・卓球)を発足させた。四十九年には、①月曜、②川中島婦人、③若槻婦人、④お父さん健康各スポーツ教室が追加となり、五十一年から初の試みとして、⑤親子体力づくり教室・親子体操教室が始まり、五十五年からは、⑥働きざかり健康教室(三五歳以上)が始まった。市は盛んになったスポーツ振興のため、スポーツ指導者研修会を開催し、スポーツ指導者バンクに登録して活用をはかったが、指導者不足は解消されなかった。

 主婦のスポーツで人気がもっとも高かったのはママさんバレーであり、四十八年十月の大会では、市内六五チーム中四五チームが参加した。「長野市ママさんバレーボール連盟」(平成五年より「長野市家庭婦人バレーボール連盟」に改称)ができて七年目になる五十三年には、八四チーム一二〇〇人が加盟し、ヤングパワー育成のための四〇歳以下のママさんバレー大会も開かれている。バレー以外でも、五十四年には市ママさん卓球、バドミントン連盟が結成された。

 高齢者のスポーツも活発になり、四十八年九月には第一回北信越高齢者スポーツカーニバル(五〇歳以上)が開かれた。五十二年には運動公園でゲートボール大会がおこなわれ、高齢者によるブームとなる。

 長野市は市民スポーツの多様化・大衆化にこたえ、会場不足を補うため、施設の充実と学校開放の促進に力を入れるようになる。五十年春、真島の市民体育館わきに第二市民体育館が完成し、五十三年八月二十六日には、念願の長野運動公園市営総合体育館が完成した。この施設は五十三年のやまびこ国体バスケットボール主会場として使われた。また、五十四年四月には市営三輪体育館が完成し、地区の社会体育館第一号となり、公民館活動と離れた地域社会の施設として活用されていく。


写真93 昭和53年東和田に運動公園総合体育館完成