高校総体とやまびこ国体

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昭和五十一年(一九七六)に全国高等学校総合体育大会(以下、高校総体)と、五十三年に第三三回全国国民体育大会(以下、国体)が長野県で開催された。長野県が国体招致を最初に計画したのは、戦後間もない昭和二十七年開催予定の第七回国体であったが、長野県内の中心会場となる松本市と他の会場市町村との交通改善が条件とされ、結果的に条件整備のよい福島・宮城・山形ブロックに決定された。二度目の招致計画は、昭和四十六年開催予定の第二六回国体であった。この国体の開催地域は、それ以前の「中日本・西日本・東日本」(以下、中・西・東)の順番からみて、ほぼ長野県をふくむ中日本(ブロック)とされていた。そこで、長野県ではこの国体招致運動をすでに昭和四十年から始めていたが、国体の開催地を決定する日本体育協会(以下、日体協)の評議員会は、「これまでの未開催県の均衡をはかるため」として、第二六回大会からの国体開催地を順次「西・東・中」とする案を内定した。

 これにたいし、中ブロックでは、長野県をはじめ関係各県が強硬な抗議をおこない、評議員会の案は白紙にもどされ、結果的に四十二年三月の国体評議員会で、未開催県も考慮して第二六回(四十六年)から第二九回(四十九年)までは特別に「中・西・東・東」と調整され、第三〇回(五十年)以降は「中・西・東」の順とすることに決定した。しかし、当時の経済成長はめざましく、同じブロック内の各県でも国体招致合戦は激烈をきわめていた。そのため「長野県は施設の整備状況の悪いこと、および主会場地を長野市・松本市のいずれにするかが決まらないこと」などがあって、第二六回国体は和歌山県に決定した。

 四十六年三月長野県議会は、第三三回(五十三年)国体招致に関する決議をおこない、本格的に招致運動をすすめることにした。

 また、日本体育協会では四十七年三月に入ると、これまでの開催ブロック順の決定方針を再度変更し「第三一回(五十三年)から第三五回(五十五年)の国体については、ブロック内の開催県についても決める」ことになった。そこで、長野県は急きょ同年三月末の県会で、第三三回(五十三年)に冬・夏・秋の国体を招致する決議案を満場一致で議決し、六月一日には国体招致準備委員会を発足させた。そして冬のスキーは野沢温泉村、夏は長野市を、秋は松本市を主会場とすることが決められた。

 いっぽう、国体と並んで高校総体もおこなわれていたが、昭和四十七年には五十一年度の高校総体が長野県を中心開催県としておこなわれることが内定した。これにより、例年おこなわれている十月十日の「体育の日」には、とくに、この年から両大会を目ざした行事が県内各地で計画されたが、どこも体育施設の乏しさや、選手の育成に悩みをかかえていた。そこで、陸上競技場・水泳場・体育館などをふくむ総合運動公園の充実や選手の育成強化対策にむけて、いっそうの拍車がかけられることになった。

 これらの動きのなかで長野県および長野市は、全国規模の大会ができる長野総合運動場の建設をみこんで、昭和四十一年五月七日には長野市東和田地籍に第一次事業として県営球場(野球場)を完成していた。その後、第二次事業は長野市の都市計画公園事業および体育施設整備事業として、さらに昭和四十五年からは長野市が主体となって建設計画がすすめられた。これにより四十七年三月には、長野運動公園の基本設計ができあがった。この基本設計は、その後も完成までの間大きな変更はなく継続してすすめられるものとなった。

 四十九年四月から「高校総体・国体事務局」をスタートさせ、本格的な準備に入り、国・県に建設補助金などの働きかけに力をそそいだ。高校総体準備の最大の焦点は、長野運動公園の仕あがりにかかっていた。既存の県営球場をふくめ総面積二二・二ヘクタール、建設費総額五〇億円以上を見こみ用地買収の八五パーセントは終了し、水泳関係施設の一部はすでに着工していた。しかし、最も建設計画がおくれていたのは体操関係施設であった。そこで、四十九年六月には市内真島にある市民体育館(四十七年六月建設)のわきに、第二市民体育館を翌年三月三十一日までに完成させることにした。翌五十年五月、最初にほぼ完成したのは水泳場(プール)であった。これは、日本水泳連盟のA級公認施設で、他の施設もつづいて完成を急ぎ、五十年度内に体育館を除いてほぼ完成の見こみとなった。


表41 市内スポーツ関係施設等の開設

 長野市は昭和五十年六月十三日、柳原市長が定例市議会に「スポーツ都市宣言」の議案を提出し、満場一致で可決し、同月十五日長野市運動公園(東和田)総合プール開きの際に市長が宣言文を朗読した。このスポーツ都市宣言は県下で初めてであり、全国でも五番目であった。

 四十九年二月二十一日国体県準備委員会総会で、五十一年高校総体の県内一四競技の会場地(表39)と、五十三年国体の冬季・夏季・秋季各大会の三三競技の一七市六町三村におよぶ各会場が決定された。


表39 昭和51年高校総体の会場(8月1日開会式)

 昭和五十一年八月一日、「自然と友情と躍進」のテーマをかかげた高校総体(インターハイ)は、新装なった長野市営陸上競技場(東和田)で総合開会式をおこない、つづいて二五競技のうち一四競技が、長野県下の各競技会場で二〇日間にわたっておこなわれた。連日雨天であったが、屋外競技も予定どおり消化されて無事に終了した。これだけ大きな総合体育大会は県下では初めてのことであり、競技成績も例年になく向上して、個人・団体あわせて一位から一六位に入ったものが三九(前年より一八、五年前より二六増)で、選手強化の努力が実る大会であった(『長野県体育協会史』)。しかし、この高校総体全体の種目と各会場は、長野県が主会場ではあったが、中部圏内の各県に種目(競技場)が配分されたものであり、当時は国体も同様のかたちでおこなわれるのが普通であった。


写真94 昭和51年度高校総体開会式

 第三三回国体の準備は、高校総体の最中も並行してすすめられた。五十一年一月実行委員会総務専門委員会は、国体のテーマとスローガンについて一般募集を決め、二月その入選作から、テーマは「やまびこ国体」、スローガンは「日本の屋根に手をつなぐ」と決定した。これから国体開会までの二年間は、専ら選手の競技力向上と共に大会運営や施設の整備に力をつくした。競技関係では、練習環境の整備・合宿激励・末成熟競技の育成につとめ、炬火(きょか)リレーでは、県下一二二市町村がそれぞれ由緒ある場所から採火し、県の火は霧ヶ峰高原の旧御射山(みさやま)の遺跡から採火することにした(『やまびこ国体』)。

 開会式は、五十三年一月二十二日冬季(スケート)大会をはじめ、夏季大会・秋季大会それぞれに表40の順におこなわれ、競技成績では全種目総合で完全優勝を果たし、天皇・皇后両杯を獲得した。

 この国体の特色は、冬季・夏季・秋季におよぶすべての競技が長野県内の競技場(表40)でおこなわれ、いわゆる「完全国体」をはじめて実施したことであった。


表40 第33回国体(やまびこ国体)の種目と会場


写真95 昭和53年やまびこ国体の閉会式