市役所庁舎(現本庁舎)は昭和四十年(一九六五)にできたが、翌四十一年十月の大合併による事務量の増大で早くも手ぜまになり、以後、五十年代にかけて、幾つもの部所が、それぞれ庁舎を離れた近くの民間ビルなどの借り受け建物に移り、あちこちと事務所が分かれていた。そのため、当時は「たこあし庁舎」の異名をまぬがれず、庁舎増改築の構想が論議されていた。
五十三年(一九七八)十二月の市議会(当時柳原市長)では、現本庁舎の増改築を決めて、五十四年十二月から翌五十五年二月までの間に二度の工事入札をおこなった。しかし、二度とも市側の落札予定価格と業者の見こみ価格との間には大きな開きがあり、増改築は不調におわった。この不調の要因は、当時の石油危機による経済界の不振が影響していた。このため、市庁舎の不便度はいっそう増大することになった。
五十八年二月、市議会の市庁舎建設委員会は、現本庁舎隣接南側の日穀製粉工場の敷地(代替地は大豆島風間地籍)を取得し、新たに第二庁舎を建設することを確認した。そして五十九年十二月の定例市議会では、初めて補正予算のなかで、第二庁舎のさく井工事請負費三〇〇万円が決議された。これをうけて、六十年三月九日に開かれた市庁舎建設委員会では、六十年度から三年がかりで建設する第二庁舎の建設業者選定基準について「大手を中心に地元業者が参加する方式が望ましい」との考えを示し、共同企業体方式の業者指名とする方針を示唆した。これは五〇億円近い大型工事のため、県内外の建設業界が注目しており、五十四年・五十五年の市庁舎増改築入札が不調におわり計画が流れた経緯があり、委員会側は「同じことを繰りかえさないよう十分配慮を」と市に要望したもので、建設構想は大要つぎのようであった。
① 場所は市役所南に建設し、鉄筋コンクリート地下一階、地上一〇階で、延ベ一万五三〇〇平方メートル。
② 三方向から採光、通風する省エネ設計で、中央に柱がない無柱空間構造にする。
③ 工事の発注は、建築主体、建物、弱電通信、空気調和、給排水衛生、昇降機設備の六区分とし、指名競争入札を予定、四月発注、五月入札の日程で業者選定に入る。
こうして、六十年六月二十日、第二庁舎の建設工事は決定し、設計は日建設計(株)、建物請負は前田建設工業(株)と北野建設(株)で、ようやく着工されるはこびとなり、総事業費は約三五億九八〇〇万円(『広報ながの』)であった。
六十一年八月の工事進捗率は四四パーセントに達し、完成見こみは六十二年八月であった。六十二年二月には、すでに屋根張りが始まったが、この大きな台形の屋根は、高架水槽を直射日光から守るとともに、冬は地下水の活用で融雪効果もねらったものである。この構造は当時としては珍しいものであった。また、庁内には身体の不自由な来庁舎のために、入り口部分や建物内の廊下、通路には段差のないようにしたり、さらに、玄関棟正面玄関には誘導チャイムを設置して、スムーズな市役所への出いりができるようにした。
六十二年八月二十二日、第二庁舎の竣工記念式典が、午後一時から緑町の市民会館で開かれ、午後は一般市民にも第二庁舎の披露がおこなわれた。この第二庁舎の完成により、同月二十八日から三十日の間に第一庁舎から新庁舎に入る課の引こしが完了し、また、今まで外の建物(第一分室、第二分室、農林部、水道局など)にいた幾つかの課が本庁舎にもどり、「たこあし庁舎」の異名は解消されることになった。
いっぽう、市制九〇周年記念式典は、第二庁舎竣工記念と併せておこなわれた。長野市は、九〇周年を迎える六十二年度当初、記念事業としてつぎの事項をあげている。
① 市民憲章の制定、市の木・市の花の制定
② 芸術文化振興基金・都市デザイン基金の創設
③ 市民文化センター、コンベンションホール、淡水魚水族館、昭和の森公園の建設に五億五〇〇〇万円
④ 記念式典、文化コミュニケーション九〇万円、日本文化デザイン会議、市民綱引き大会などの記念行事に四四〇〇万円
このうち、市民憲章については、市議会議員をはじめ、各界四〇人の委員で構成する「市民憲章制定委員会」が回を重ねて検討し、六十二年十二月二十一日、つぎのように制定された。
信濃の国の歴史と伝統のあるまちで、私たち長野市民は、すぐれた自然と文化を愛し、平和を願い、ひとの尊厳を大切にし、国際人としての資質を高め、ともに力を合わせて豊かに発展する未来に向けて羽ばたく
市の花と市の木の選定については、すでに六十一年八月ころから考えられていた。緑あふれる豊かな街づくりの一環として、市街地の緑化に役だてたいとのことからであった。当時県下一七市では、長野・大町の二市のほかはすべて市の花・市の木などが定められていた。そのなかには、建設省の「日本の道百選」に選ばれた飯田市のりんご並木や、国の天然記念物「十三崖のチョウゲンボウ」を市島にしている中野市、また、特産の佐久ゴイを市魚にしている佐久市などのユニークな例もあった。
長野市は、これら県下他市の例にも刺激され、選定委員会を設立し、さらに、市民の投票によって決定することにした。その結果、六十二年四月一日『広報ながの』は、「市の木にはシナノキ」・「市の花にはリンゴ」が選ばれたと発表した。市では、これを長野市のシンボルとして、学校・公園など公共施設への植栽や街路樹に、また、結婚・新築・入学などの記念樹に広く普及をはかっていくとした。
このほか、式典当日には約一五〇人の功労表彰や感謝状の贈呈がおこなわれ、また、この式典の席上、塚田市長は、冬季オリンピック招致を積極的にすすめる考えを協調した。さらに、式典につづき猪谷千春IOC(国際オリンピック委員会)理事は、「オリンピック開催都市になるには、まず、国内のライバルに勝って、長野市を海外でよく知ってもらうことがたいせつだ」と、記念講演するなど、五輪色の濃い式典となった。