ごみ問題と清掃工場などの建設

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長野市のごみ処理や汚物処理の問題は、すでに明治末年から大正年代に始められた。とくに、大正十二年(一九二三)の近隣一町三ヵ村(吉田・三輪・芹田・古牧)の編入合併により、市の人口はそれまでの約四万人から六万人余となった。そのため、ごみの処理問題も市の事業としてその処理の必要に迫られてきた。これまで、ごみは捨てる物として、各所にごみ捨て場があったが、市営のごみ捨て場は、鶴賀のお蝶踏切り(現市役所第二庁舎付近の旧日清製粉敷地)にあった。ここは昭和の初めころまでごみ集め大八車の置き場になっており、不燃物はここに捨てられていた。

 長野市は、大正十四年ごみ処理改善のため、処分場設置の調査研究委員七人をあげ、研究の末、候補地に大字鶴賀字峰村川原(七瀬地籍)を選び交渉したが、地元の反対で難航した。しかし、数ヵ月後に了解を得るに至り、一七〇〇余坪(約五六一〇平方メートル)を六五二五円で買収した。翌十五年六月に工費三万四六八円余を投じ、一日一万二〇〇〇貫(約四五トン)の焼却能率をもつ鉄筋コンクリートの焼却場(七瀬焼却場)と附属建物が建設された。これにより十五年(昭和元年)度から一般市民にたいし、各自ごみ箱二個を設備し、可燃性ごみと不燃性ごみとを選別して、それぞれ別の容器に投入することにした。なお、昭和二年度(一九二七)からは、ごみの搬出作業を迅速化するため、ごみ箱からの直接収集には主として手車を用い、焼却場に至る途中運搬は自動車による方法に改めた。その後、ごみ運搬の自動車台数はふえていき、その車庫と詰所は県庁東門通り付近におかれたが、昭和十年七月には大字鶴賀字下河原に八一坪の建物を借りて改築し移転した。この七瀬焼却場は、その後三十数年間にわたり戦前から戦後にかけて長野市ただ一ヵ所の焼却場としてつづいたが、昭和三十年代に入り施設が老朽化して焼却能力がおち、一日三〇トンほどをこなすだけとなった。加えて昭和二十九年周辺一〇ヵ村の編入合併による人口増加で、一日のごみ搬出量は六〇~八〇トンにおよび、焼却できない分は穴を掘って埋めるという苦しい処理をしていた。


図5 長野市街地図(昭和31年)

 そのため、新しい焼却場の設置が必要となり、市の都市計画調査委員会は、新建設地をもとめていたが、地元住民の反対によりのびのびになっていた。三十六年九月にようやく大豆島地区松岡(大境)に候補地がきまり、同年十月九日に起工式、一年後の三十七年十月二十五日に竣工式がおこなわれた。この新焼却場は「松岡清掃工場」と呼ばれ、敷地三三四九坪(約一万一〇五二平方メートル)、総事業費五八三三万円、煙突の高さ五五メートル、清掃車を導入する橋版の長さ九四メートル、焼却能力はごみが一日一〇〇トン(五〇トン炉二基)のほか、野菜くずなど一日一〇トンで、焼却場の規模としては県下最大で、全国にもあまり例のない大きなものであった。なお、これより先、長野市はごみ処理の機動力を充実して家庭の不満を取りのぞくため、三十七年四月一日から新たに清掃事務所を新設したり、ごみ搬出用の清掃車四台を新規購入して、従来の一三台と合わせて一七台としていた。

 このころから、不燃物のガラス・瀬戸物破片・取り灰などの搬出については、各地区の区長または衛生組合長から清掃事務所へあらかじめ連絡のうえ、集積する日時と場所をきめてまとめておけば、その日時に搬出車をまわす方式がとられた。この松岡清掃工場は、その後五十七年までつづいた。

 いっぽう、合併前の松代町では、昭和三十七年(一九六二)ころから環境衛生が叫ばれ、ごみ焼却場建設の問題がおこっていた。町では翌三十八年には起債四〇〇万円の認可を得ており、同年十一月にはごみ焼却場の建設用地として東寺尾字扇平(鳥打峠中腹)に用地買収が決定し、翌三十九年には一日一〇トン処理のごみ焼却場が竣工した。しかし、不燃物は埋め立て処分に依っていた。この焼却場は四十一年長野市との合併後も、そのまま長野市に引きつがれ、昭和五十六年休止解体までつづき、松岡清掃工場とともに操業された。

 合併前の篠ノ井市では、以前から横田地籍にごみ焼却場をもっていたが、焼却能力は一日三・七五トンで、三十年代末には毎日排出されるごみ量の三分の一しか処理できず、残りは千曲川の河原で焼いていた。そこで、三十八年から隣接の松代町・更埴市・川中島町などと共同でごみ処理場をつくる話をすすめたが、候補地が決まらず、三十九年には篠ノ井市内の前河原地籍を候補地に選んだが、これも地元の反対でできなかった。さらに、四十年五月には、篠ノ井市と川中島町によるごみ処理施設の「一部事務組合」の設立が認可され、それと同時に中尾山地区の栃久保地籍を選んだが、これも地元の反対ですすまなかった。しかし、同年七月から篠ノ井市・川中島町衛生施設組合が工事費八七〇五万円で建設していた駕籠石工場(篠ノ井有旅)が、長野市との合併後四十一年十二月に完成した。この施設は、生ごみを発酵させてコンポスト(高速堆肥化)するという、旧来の観念から脱皮したもので、県下で初めてものであった。これにより図6でみるように、四十一年から四十年代末までの間ごみの焼却量は横ばいで保たれたのである。


図6 長野市のごみ処理状況の推移

 いっぽうまた、四十一年の大合併後は、高度経済成長により、テレビや冷蔵庫・洗濯機などの買いかえや家屋の建てかえなどにより、不燃のごみが大型化し搬出量も増大してきた。そして数年後には一日三〇〇トンを超すものと予想された。そのうえ、松岡清掃工場は、とくに夏期にスイカや生野菜のくずなど水分の多い生ごみがふえたために、熱の効率が落ち、ポリエチレンの熱によって炉のレンガやロストルなどが腐食し、炉自体が老朽化していた。また、このころ煤煙などスモッグが社会問題となり、県では「公害防止条例」を制定していた。そこで、昭和四十四年十一月には、松岡清掃工場の東側に新しいごみ焼却炉を二ヵ年計画で増設することになり、同月十一日現場で起工式がおこなわれ、四十六年一月に完成した。この新施設は「セミ機械炉」と呼ばれ、二五トン炉四基、焼却力一日(八時間)一〇〇トンで、工事費は約二億三四〇〇万円であった。これによりごみの焼却は、松岡と松代の施設を合わせて消化できるようになった。


写真16 昭和46年3月「セミ機械炉」稼働

 不燃物の埋め立てについては、昭和四十六年に古里五反田地籍に、面積四万六一九五平方メートルの不燃物最終処分場を設置した。ところが翌四十七年の夏期七月には悪臭とハエ、それにカラスを追いはらう機器騒音などで、近くの県身障者福祉センターから問題が指摘された。結局、市は五十四年に小松原地籍に最終処分場(最終面積五万六〇〇平方メートル)を移したが、さらに平成四年(一九九二)には天狗沢(面積六万四六一平方メートル)へ最終処分場を移して今日にいたっている。

 不燃物処理については、市民生活の向上にともなって、ますますふえる空き缶・ガラス・瀬戸物くずなどのほか、大きな物では自動車にいたるまでの処分に迫られた。このような問題は単に長野市だけの問題でなく、周辺の市町村でも同様であった。そこで長野広域不燃物処理施設組合は協議のうえ、大豆島の長野市清掃工場の北隣に、四十七年から二年がかりで総工費四億六〇〇万円を投入して「長野プレス工場」を四十九年三月三十日に完成させた。これは集めた不燃ごみを一三五〇トンの超高圧で押しつぶして一・一メートル角にし、金網をかけたあと、温度三〇〇度以上のアスファルトで包み、さらに砂をかけて埋め立てるというものであった。新工場は、流れ作業方式で一日(八時間)一〇〇トンの処理能力をもっていた。これにより、今までのように埋め立てたごみによる悪臭や鳥の害が防げるようになった。この工場は平成八年までつづいた。

 昭和五十年代には、ごみ問題のほか、汚泥・煤煙・悪臭・騒音・大気・自然破壊などの諸問題は、すべて環境問題として取り上げられ、その対策が迫られるようになってきた。さらに増大するごみについては、いっそう効率のよい処理が問題になってきた。

 このようななか、五十年代に入ると長野市は千曲川河川敷でごみ焼却をしたり、隣接の小県郡真田町との協約のうえではあったが、市内で集めたごみを埋め立てに市外へ運びこむことが問題になり、長野市のごみ処理問題はほとんど極限状況になっていた。そしてまた、市民のごみ問題にたいする意識や認識の変革も迫られていた。

 そこで、五十四年(一九七九)当初古里の埋立地はすでにパンク状態で、小松原の不燃物処分場を建設中という状況のなか、市は同年二月松岡清掃工場の拡張と新焼却場の計画をたて、地元の了解をえて実現に動きだした。だが、用地問題から着工がおくれ起工式は同年八月十日となった。新清掃工場の敷地は松岡清掃工場の西側約一万六〇〇〇平方メートルで、二年後の五十七年一月十二日請け負いの日立造船から長野市に引き渡された。総事業費は用地をふくめ約五〇億円、鉄骨五階建て、一日四五〇トンの焼却能力(一五〇トン炉三基)、ごみの持ちこみは一日平均二二〇トン余りでかなりの余裕がうまれた。なお、この新清掃工場では、発電機による電力で施設内の電気をおぎない、さらに余熱による湯は構内の浴室のほか「大豆島老人憩いの家」や「サンマリーンながの」などに利用され、煙突からは全く煙が出ず、悪臭・騒音・水質なども基準以下というものであった。この時点で旧松岡清掃工場は休止解体された。

 長野市は五十六年九月、松岡地籍に「有価物分別回収施設」の建設計画を立て、翌五十七年三月二十九日に完成式をおこなった。この工場は「資源回収工場」と呼ばれ、鉄骨づくり二階建て、延べ面積一一七七平方メートル、総工費二億一八〇〇万円、処理能力は一日一〇〇トン、ごみはベルトコンベヤーで二階に送られ、まず可燃物を分け、つぎに磁石で鉄くずや缶を自動的に回収する。最後はアルミ缶やプラスチック、瓶などを選別するものである。また二次公害の防止と安全操業にも配慮されたものであった。


写真17 昭和57年完成の新清掃工場

 同時に五十七年からは、家庭ごみの回収についても三分別(可燃・不燃・資源ごみ)がはじめられ、段階的にモデル地区指定の実施がおこなわれた。さらに、平成四年(一九九二)からは、五分別(可燃・不燃・紙・瓶(びん)・缶)に合わせた指定袋制度の地区指定を段階的におこなって、平成六年には全市の実施に移された。市内各地におけるこれらの実施を推進するためには、地区に役員だけでなく、市民の各種団体や自主的な推進団体による積極的な協力が必要であった。このため、市は、資源回収報償金制度(五十一年)・ごみ収集場設置事業補助金(五十六年)などを設けて推進をはかることもしてきた。

 平成八年三月一日には、新清掃工場の東側に資源化施設(リサイクルプラザ)の竣工式がおこなわれた。この施設は、五分別収集で集められた不燃ごみや粗大ごみをリサイクルルートにのせて資源物を取りだすなど、五分別収集の成果を高めるものであった。この処理により、埋め立てる量が約三〇パーセント減るとされた。そのため、これまでの長野市資源回収工場や長野プレス工場は休止された。また、この資源化施設に並んでリフレッシュプラザが同年四月に完成した。ここでは、ごみの減量と再資源化の情報や体験の場を提供したり、講習会を開くなどして、不用品・再生品の展示・提供をしている。また、リサイクルを推進している市民グループの活動の拠点として、会場の提供や設備の貸与などの支援をして、市民と一体となったごみ問題の解決と推進をはかっている。


写真18 ごみの分別収集

 平成十三年四月には、家庭リサイクル法が施行され、家電四品目(エアコン・テレビ・冷蔵庫・洗濯機)がリサイクルされるなど新たな取り組みがはじまった。また、容器包装リサイクル法が完全実施されたことを受けて、長野市も平成十五年以降にプラスチック製容器包装の分別を開始する方針で、十三年十月から市内モデル地区を指定して分別収集の施行を開始している。