同和対策事業特別措置法(昭和四十四年制定、三年延長、以下、同対法)の後を受けた地域改善対策事業特別措置法(昭和六十二年までの時限法、以下、地対法)が、昭和五十七年(一九八二)三月に制定された。同年五月、市の同和教育指導員は、全市的に活動する一七人のほかに、地区単位に活動する指導員四六人が配置された。指導員は、各地区の公民館や同和教育促進協議会の同和教育に関する講座や行事・事業に協力し、指導・助言をおこない、部落解放の啓発・推進にあたった。指導員の養成講座や指導員研修もすすめられた。
五十八年度に市は、市内全小中学校六六校を同和教育研究指定校とし、指導主事二人による訪問指導をおこなって研究・研修をすすめ、研究発表校七校による発表と実践報告書のまとめをおこなった。しかし、同年市内の中学校三校で、つぎつぎと生徒の差別発言事件があり、あらためて学校同和教育の質が問われることになった。そこで、学校職員の同和教育研修も管理職・中堅教員・新規任用職員別におこなわれるようになった。
市教育委員会は、学校の同和教育補助教材として、小学校一年生に低学年向け『あけぼの』、三年生に中学年向け『あけぼの』、五年生に高学年向け『あけぼの』、中学校一年生に『あけぼの 人間に光あれ』を配布した。市では「部落解放都市宣言」「同和教育三〇の質問」「憲法抜粋」などの資料を全校に配布し、同和研修の職場内研修を年二回ずつ開き、部落解放にかかわる公務員の責務と人権感覚の育成につとめた。そのほか、外部から講師を招いての研修もおこなっている。
市内の公民館では同和教育学級一〇学級を設け、一学級二〇時間以上同和教育に関する学習をした。また、地域住民を対象として同和教育講座を一三公民館で二五講座(一講座六時間以上)開いた。また、各公民館では地区の同和教育促進協議会と協力して、同和教育研究集会を開き、分館でも同和問題地区懇談会を開いて、部落差別をなくして明るい人間関係と地域社会づくりにつとめた。その後、しだいに講座をもつ公民館がふえて、二三あるすべての公民館で講座がもたれるようになり、平成十三年には合計五七講座・四四〇時間・延べ六七〇〇人の参加となっている。
さらに、市は同和教育指導者研修会・同和教育指導者養成講座(一講座一二時間以上)・団体等同和教育指導者研修会などをおこない、五十八年十月に部落解放市民集会を開いた。五十九年の部落解放市民集会は若里の県民文化会館で九七〇人が集まって開かれ、「人権感覚の育成につとめ、豊かな人間関係をうちたてよう」との宣言を採択した。同和対策集会所事業としては、同和教育講座・解放学習講座を開設し、料理・詩吟・書道・生花・綴方・民謡などの教養講座も設けた。
部落解放同盟県連は、県内の墓地や寺院の過去帳における差別戒名の実態調査を五十八年九月に始め、その調査結果をまとめて翌年『被差別部落の墓標-信州の差別戒名考』として発刊した。このなかでは、差別戒名墓石数一八一一基、差別戒名数二三二五を数えた。戒名にすべて差別的漢字を用いたものもあり、釈迦や宗祖の教えからはずれ、江戸時代の身分制度のなかに組みこまれた教団・寺院・僧侶の差別姿勢がきびしく指摘されることとなった。差別戒名にかかわる市内の寺院は一九ヵ寺あり、曹洞宗五ヵ寺・浄土宗一四ヵ寺で、その多くの寺院では五十八年以降追善供養が営まれた。
昭和五十九年(一九八四)十二月、部落解放長野市民共闘会議は、柳原市長あてに「部落解放行政に関する要求書」を提出した。それには、部落解放基本法制定に向けて国へ働きかけること、部落解放都市宣言にふさわしい解放行政を推進すること、部落解放審議会を有効に機能させること、部落解放研究集会の後援・助成をすること、などの四ヵ条が盛りこまれていた。この後、部落解放長野市民共闘会議は、人間解放をめざして「地域で創意に満ちた解放運動」を合い言葉に、部落解放講座を設けて学習をすすめるなど、地道な活動を粘りづよくつづけてきている。
昭和六十年五月に部落解放基本法中央実行委員会が結成され、六月に部落解放基本法長野県実行委員会が結成された。これにより、八月に部落解放基本法長野市実行委員会(会長小野清治郎社協会長)を結成し、制定をもとめて署名活動を始め、六〇〇〇余人の請願署名を市議会に提出した。九月に市議会は、部落解放基本法制定をもとめる議会決議をおこない、意見書を国に提出した。十月には部落解放基本法制定長野市推進本部が発足した。同年十月、北信子ども会大会が豊野中学校で開かれた。北信一六の解放子ども会から約三〇〇人が集まった。この年に篠ノ井同和対策集会所・上石川同和対策集会所が開設された。
県同和教育推進協議会(以下、県同教推協)では、昭和五十九年に幼児の実態をふまえた幼児むけ『あけぼの』を完成して、県内の保育園一幼稚園・小学校一年生などで、幼年期の同和教育のいっそうの推進・充実がはかれるようにした。また、六十年に『あけぼの 人間に光あれ』の改訂版をだした。初刊本から一〇年経ったので、新しい研究成果を入れ、読みやすくわかりやすく記述するようにつとめた。翌六十一年には、低学年むけ『あけぼの』を改定し、さし絵を豊かにして文章をやさしくいいかえた。同年、社会同和教育資料として『しあわせ-差別をなくすために』を発刊し、小中学校PTAむけ同和教育教材映画『風光る時』を制作した。翌六十二年には、県内の被差別部落の歴史を解説したビデオ『人間をとりもどす』を制作した。この続編にあたるドキュメンタリー映画『人間の誇り』が平成二年(一九九〇)につくられている。
昭和六十一年(一九八六)四月に田牧同和対策集会所が開設され、地区同和教育指導員が二〇人増員されて六六人となった。十月には、県仏教会がざんげと反省の思いをこめて、善光寺で被差別戒名物故者の慰霊法要をおこなった。県仏教会の各地区代表者・部落解放同盟関係者・物故者遺族・県関係者・市町村長など一七〇人が参列した。この前年に、県仏教会は県同教推協に加盟している。第二回慰霊法要は平成二年六月に、やはり善光寺でおこなっている。また、善光寺大本願では、浄土宗差別戒名物故者追善法要を平成九年におこなった。
「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(昭和六十七年までの時限法、以下、地対財特法)が六十二年三月に公布、四月に施行となった。四十四年の同対法、五十七年の地対法につづく、地域改善対策措置である。この法によって、国の補助対象の事業は二八減って五四事業となった。市は今後の同和行政の在りかたについて長野市部落解放審議会(南沢将男会長)に諮問した。審議会は十二月に「長野市の同和行政の在りかたについて、なお、継続・充実をはかるべきだ」と塚田市長に答申した。市長は「答申を尊重し、精力的に取りくむ」とのべた。部落解放同盟県連市協議会の対市交渉においても、市長は「同和行政に後退はない」と言明した。市では、啓発用ポスター・標語の募集、『広報ながの』の同和教育特集、ラジオ・テレビ・有線放送などを通して啓発につとめた。同年に上町同和対策集会所(塩崎)が開設された。
六十三年五月、篠ノ井西中学校に同和教育推進教員が配置され篠ノ井解放子ども会が発足した。九月に篠ノ井市民会館で「部落解放基本法制定をもとめる長野市民集会」が開かれた。部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会の小森竜邦の講演を聞き、「冬季オリンピック招致をめざす長野市民は、差別を見抜き差別を許さない人権感覚を身につけ、平和の祭典にふさわしい人権都市を築きあげねばならない」とする市民アピールを採択した。同じような趣旨で、十一月に若穂地区市民集会・十二月に更北地区市民集会が開かれた。翌年からは、篠ノ井地区・松代地区でも部落解放市民集会を開催した。その後、安茂里・七二会・三輪・大豆島・古牧・朝陽・川中島・吉田・若槻など九地区でも市民集会が毎年開かれるようになっている。同年に県同教推協は、柴田道子部落解放文学賞の第一回から第一〇回までの入賞作品集「この子らの叫びたばねて」を出版し、翌年には小学校低学年向け教材、アニメ「みんなのもり」を制作した。平成十四年からは「人権を考える市民のつどい」と名称を変更している。
市教育委員会は市校長会に委託し、同和教育委員会によって『長野市学校同和教育指導計画』(小学校・中学校)の改訂をおこなった。これは昭和四十九年(一九七四)に作成した指導計画書に欠落した、全教育活動における同和教育の実践と解放子ども会にかかわる教材化を大事に考えて改訂されたもので、展開例や資料を豊富につけている。
長野市議会は、平成二年(一九九〇)に「部落解放基本法に関する意見書」の採択をおこなった。この年まで二三年間つづいてきた高教組主催の「長野県高校生部落問題研究集会」は、高校生自身の討議の結果「人権問題を考える高校生の集い」と名称を改めた。分科会は、クラスの仲間づくり・生徒会・進路と学歴社会・部落問題・平和問題・障害者問題などを設けて、研究討議をおこなった。同年、松代子ども会は松代寺尾子ども会と松代西条子ども会とになった。市内七ヵ所の子ども会では、解放学習・交流会などの活動を通して、育成事業がすすめられてきている。
平成三年八月、市内一三団体が集まって「部落差別を許さない長野市連絡会」設立総会を開いた。十月には、部落解放基本法制定要求長野市実行委員会主催の市民集会が開かれ、塚田市長を先頭に市内中央通りをデモ行進し、部落差別を許さない決意を市民にアピールした。四年に地対財特法の一部改正がおこなわれ、九年まで延長となった。
五年には部落解放基本法制定要求長野市実行委員会によって、長野市へ条例制定をもとめることになった。これは国に部落解放基本法制定をもとめるため、地方自治体に条例制定をはたらきかけていく運動の一環である。長野市区長会でも市内全戸対象に「長野市に人権尊重の条例をもとめる」署名運動をおこなって、九万二一八八人の賛同署名を集めた。これにより、塚田市長は部落解放審議会へ条例についての諮問をおこなった。同年に、全国水平社創立七〇周年記念事業で制作された映画『橋のない川』の自主上映運動によって、市内四ヵ所で上映され一五〇〇余人の人が観賞した。
市部落解放審議会は平成八年(一九九六)四月、差別撤廃のための条例制定の方向での答申をおこなった。同年六月長野市議会において、一三ヵ条からなる「人権を尊び差別のない明るい長野市を築く条例」が可決され、七月一日から施行された。その第一条には「この条例はすべての国民の基本的人権の享有および法のもとの平等を保障する日本国憲法の理念ならびに部落解放都市宣言(昭和五十一年三月二十九日長野市議会議決)の精神にのっとり、人権意識の高揚をはかることにより、部落差別などあらゆる差別のない明るい長野市をきずくことを目的とする」とその目的をうたい、第二条には長野市の責務をのべ、第三条には市民の責務として「市民は、相互に基本的人権を尊重し、前条の規定により市が実施する施策に協力するとともに、自らも差別および差別を助長する行為をしないようつとめなければならない」と定めている。
平成八年には、「人権擁護施策推進法」が制定された。目的は「人権の尊重の緊要性に関する認識の高まり、社会的身分・門地・人種・信条または性別による不当な差別の発生などの人権侵害の現状、その他人権の擁護に関する内外の情勢にかんがみ、人権の擁護に関する施策の推進」にあるとして、人権擁護推進審議会の設置をきめた。九年に再び地対財特法の一部改正がおこなわれ、十四年三月まで延長となった。
塚田市長は、今後の長野市の同和対策の在りかたについて、「人権を尊び差別のない明るい長野市を築く審議会(会長小笠原和典)」(以下、審議会)に諮問した。審議会は平成十年一月に答申をした。その基本的認識として、「①物的な環境整備は、相当な成果があるものと評価するものの、未整備の地区もみられること等を考慮し、個々の事業を見直すとともに必要な事業については継続する、②一般対策への円滑な移行をはかる、③給付的等事業の格差がみられるものについては、段階的に緩和につとめる、④差別事象等の発生状況にあり、差別意識の解消にむけた教育・啓発については更に充実させ、今後も積極的に推進をはかる」の四点をあげ、第一章環境改善・経済向上・福祉増進関係、第二章同和教育・啓発関係として、それぞれ各項にわたって行政の在りかた・事業内容について、経過と現状・今後の課題の面からのべている(答申「今後の本市同和対策のあり方について」)。十年に長野市校長会と連合長野地区協議会の二団体が、部落解放基本法制定要求国民運動長野市実行委員会に加入したので、構成団体は三一団体となった。
平成十三年五月に塚田市長は、平成九年につづいて審議会にたいし、今後の長野市の同和対策のありかたについて諮問した。諮問の趣旨の大要は、「平成十年に審議会答申をいただいて、同和対策事業を実施してきたが、地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律は、平成十四年三月に期限終了となる。平成十二年十二月に人権啓発の推進に関する法律が制定された。今後の長野市の同和対策のありかたはいかにあるべきか」というものであった。
諮問を受けた審議会は、協調四団体からの意見聴取などをおこなって、慎重に審議してつぎのような結論をだして、鷲澤市長(平成十三年十月市長当選)に答申をした。それは「市におかれては、当審議会の答申を尊重され、同和問題の早期解決のため、有効適切な施策を講じられるよう要望するものである。なお、将来国の人権教育・人権啓発の推進に関する法律の基本計画並びに人権救済制度について整備される趣につき、三~五年の間に必要な見なおしをはかられたい」というものであった。そして、環境改善・経済向上・福祉増進関係、同和教育・啓発関係についてくわしくのべている。
平成十四年四月から、市の同和教育課は人権同和教育課・同和対策課は人権同和対策課と改称し、同和対策集会所は人権同和教育集会所と改称し、同和教育指導員も人権同和教育指導員となった。