冬季五輪招致委員会の結成と活動

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昭和五十九年(一九八四)末から、県スケート連盟・県スキー連盟などの県内の冬季スポーツ競技団体が中心になって、平成十年(一九九八)の第一八回オリンピック冬季競技大会の長野県招致に取りくみ始めた。昭和六十年二月にはそれが一気に具体化し、三月四日の県議会本会議において、知事が西山平四郎県議の代表質問に答えて、正式に招致活動の積極的な支援を表明し、三月二十五日県議会は満場一致で大会招致を決議した。決議文のなかには、つぎのような趣旨が盛りこまれていた。「日本の中心に位置する本県は、自然環境に恵まれオリンピック冬季競技大会の開催地としての諸条件を十分満たしており、過去、幾多の国際的大会を開催し成功をおさめてきたところであるが、この実績をふまえ、歴史と伝統を誇るオリンピック冬季競技大会の開催を二一〇万県民はこぞって熱望するものである。」(「第二五六回長野県議会会議録」)長野市議会も昭和六十一年六月十日招致決議を全会一致で可決している(「長野市議会会議録」)。

 正式立候補に先だち、昭和六十年十月十四日、長野オリンピック冬季競技大会招致準備委員会が設立された。吉村午良長野県知事が会長に、専門委員会委員長に小林春雄が就任し、過去の招致活動の反省から、まず、県内候補地の一本化がはかられた。その結果、長野市を開催都市とし同市をスキー、スケート、ボブスレー、リュージュ、アイスホッケー競技の候補地に決定した。そして競技環境に恵まれ、国際大会開催の経験も豊富な山ノ内町と白馬村をスキー競技の候補地に決めた。

 昭和六十一年七月二十四日に長野冬季オリンピック招致委員会が設立され、本格的招致活動にはいった。名誉会長に吉村午良長野県知事、会長には塚田佐長野市長、事務総長には市村勲が就任した。小林秀夫作の長野の山を五輪の色で表現したシンボルマークと野中常雄の「手をつなぎ長野に呼ぼう冬季五輪」のスローガンは、それぞれ公募で選ばれたものである。


写真29 長野駅前での冬季五輪招致運動

 招致委員会は昭和六十一年十一月二十八日に立候補届けを、六十二年十二月二十三日に長野冬季オリンピック開催計画書をそれぞれ日本オリンピック委員会(JOC)に提出した。その計画書によると大会の会期は、平成十年二月七日から一六日間、種目はスキー(アルペン、ノルディック、フリースタイル)、スケート(スピード、フィギュア、ショートトラック)、アイスホッケー、バイアスロン、ボブスレー、リュージュ、カーリングで、競技会場は長野市、山ノ内町、白馬村とされていた。

 そして招致計画の概要(のち、一部変更)は、①中心地の長野市川中島町にオリンピック村を建設し、長野インターや市内の競技会場などとを結ぶ道路整備をおこなう。新設する野球場で開会式、アイスアリーナで閉会式、その他六つの屋内スケート競技場をつくり、スケート、アイスホッケー、カーリングの各競技をおこなう。また、飯綱高原スキー場で、フリースタイルスキー、ボブスレー、リュージュの各競技をおこなう、②山ノ内町、志賀高原の岩菅山と焼額山で、スキーのアルペン競技(滑降、スーパー大回転、大回転、回転、アルペン複合)をおこなう。岩菅山西側斜面に標高差八〇〇メートル余りの志賀高原最大のスキー場をつくる。オリンピック村とは新設するオリンピック道路と上信越自動車道で三〇分で結ぶ、③白馬村では、ジャンプ競技を八方尾根スキー場で、クロスカントリーとバイアスロン競技を神城地区でおこない、いずれの競技も会場新設を予定している。オリンピック村からは新設するオリンピック道路で二八分でいける計画である、というものであった。

 国内で立候補したのは長野市のほかに旭川市、山形市、盛岡市であり、この四市によって国内候補都市が競われることになった。国内候補都市はJOC委員の投票によって決定されるため、さまざまな機会をとらえJOC委員へ接触して、その理解と支持をもとめようとした。長野の招致委員会は、関係団体と協力して積極的なPR活動を展開し、長野の優位性を訴えた。長野の優位性として強調されたことは、豊かな自然・教育と文化の長野・スポーツの歴史・ウインターパラダイス・日本のまんなか長野などであった。他の都市にくらべて長野は首都圏、京阪神、名古屋の三大都市圏にいちばん近く、海外にも広く知られている日本アルプスがあることなど、立地条件の優位性が宣伝された。また、国民体育大会のスキー、スケート競技会や、さまざまな国際競技会を何度も成功させた実績も強調された。さらに、平成元年(一九八九)三月、志賀高原でアルペンスキーのワールドカップ開催が決定しており、コースや大会運営のすばらしさを世界にアピールできるため、国際競争面で有利とされた。そのうえ、スキー場やスケート施設が数多くあり、冬季スポーツが県民に広く普及し、山岳・湖沼など美しい自然環境のほか、国宝善光寺などの文化財にも恵まれ、豊かで多様な観光資源に富んでいることなど、冬季オリンピックの会場の最適地とアピールされていった。

 いっぽう、長野県内における招致運動は、昭和六十年三月の県議会の招致決議以来、しだいに盛りあがりをみせ、長野冬季五輪招致の署名運動が各地で展開された。六十二年(一九八七)三月には「長野冬季オリンピック招致推進協議会」が設立され、同年六月、長野市に東北信地域を対象とした「第一回長野冬季オリンピック招致推進県民の集い」が、その第二回目は中南信地域を対象にして六十二年十一月、諏訪市でそれぞれ開かれて、招致運動は全県にひろがった。六十二年の秋から六十三年の春にかけて、招致運動は国内候補地の決定を前にして正念場を迎え、各種団体等による招致のためのイベントが活発に繰りひろげられた。そのなかには、県出身の冬季五輪出場経験者による「長野五輪会」(六四人)による関係機関への陳情、呼びかけ、宣伝などや一万人の参加者による「県縦断炬(きょ)火リレー」、さらに、六十三年三月二十六日予定の競技会場となる山ノ内町、長野市、白馬村間七七キロメートルをリレーマラソンで結ぶ計画も立てられた(雨のため中止)。なかでも注目されたのは、六十三年三月実施の長野県小学校長会・同中学校長会・同PTA連合会の教育関係三団体による県下全戸を対象にした「冬のオリンピックを長野へ」のパンフレットの配布であった。そのなかにはオリンピックの意義、長野へ招致する意味、長野の優位性、競技内容などが図解して問答風にまとめられており、オリンピック招致への県民意識の喚起に大きな役割を果たした。


写真31 冬季五輪招致の市民の集い

 同年三月、全日本スキー連盟の現地調査、四月にJOC(日本オリンピック委員会)の現地調査がそれぞれおこなわれた。そして四月長野市で「一九九八年長野冬季オリンピック招致総決起大会」が開催された。こうして同年六月一日に東京の岸記念体育館で開いたJOC総会では、旭川市、山形市、盛岡市、長野市の順でプレゼンテーションを実施し、つづいて委員四五人による投票がおこなわれた。長野市は第一回の投票で過半数の三四票を獲得し、一九九八年オリンピック冬季競技大会立候補都市に選出された。

 オリンピック開催都市としてIOCに立候補届けを提出するには、事前に国の承認を得ることがもとめられる。そこで、長野市と長野県は、六十三年七月十三日付けで日本政府へ招致申請書を提出し、平成元年(一九八九)六月に日本政府の閣議了解を得た。招致活動は開催地域から国レベルの全国組織の「長野オリンピック招致委員会」が設立された。これは、内閣総理大臣、衆参両院議長を最高顧問にした各種団体を網羅した大規模な組織で、名誉会長に堤義明JOC会長、会長に吉村知事、実行委員長には塚田佐長野市長が就任した。

 IOCへの立候補届けは平成二年二月十二日に提出され、長野とともに立候補したのはアメリカのソルトレークシティなど五都市であった。招致活動の初期は、各種国際会議へ出向いてのPR活動が主であったが、招致活動の最大の山場は、平成二年九月の東京における第九六次IOC総会であった。招致委員会は「地球時代の美しいオリンピック」を招致スローガンにかかげて、長野のすぐれた点をマスコットのスノーレッツを使って訴えた。また、会議の合間をぬって、IOC委員を個別に長野へ招待し理解をもとめた。九月十六日のIOC理事会には、海部首相以下六人がプレゼンテーションをおこなった。民間にも「オリンピック招致友の会」など多くの招致協力団体がつくられ、多様な招致活動が展開された。

 しかし、少数意見ではあったがオリンピック招致に反対する人々もあり、県議会の討論や長野市長選などをとおして論議がたたかわされる場面があった。

 長野オリンピックの開催計画は、平成二年十月にIOCに提出され、その後これを補う「第一八回オリンピック冬季競技大会開催概要計画書」を作成し、関係者に配布して理解をもとめた。招致の過程でアルペンスキー滑降コースが問題となり、当初計画の志賀高原岩菅山から白馬村八方尾根にコースが変更され、さらに、そのスタート地点が自然との共存の観点から論議がなされたが、大会二ヵ月前に決着した。

 いよいよ、平成三年六月十五日、一九九八年冬季オリンピックの開催都市を決定するIOC総会をイギリスのバーミンガムで迎えることになった。招致委員会は合計一八五人の招致団を編成した。そのほか、国会議員団やロンドン長野県人会など応援団体も合流し、その数は七五〇人にのぼった。総会場でIOC委員の宿泊ホテルの一室にホスピタリティールームを設けて、PR活動を展開した。総会当日にはプレゼンテーションがおこなわれ、長野は四番目に登場した。そして長野各代表がそれぞれ招致演説、メッセージの披露、スピーチなどをおこない一定の方式で投票がおこなわれた。最終的に、長野は四六票を獲得し、開催都市の栄誉を手中にした。善光寺の境内では、深夜三五〇〇人の市民が集まり、衛星中継の映像を通じて決定の感激を共にした(『第一八回オリンピック冬季競技大会公式報告書』)。