平成十年(一九九八)二月七日、南長野運動公園に五万人の大観衆を集めて第一八回オリンピック冬季競技大会の開会式がおこなわれた。午前十一時、大型スクリーンに善光寺の鐘が映しだされ、平和の祭典の開会を告げる鐘がひびきわたった。御柱祭を伝承する一〇〇〇人もの諏訪地方の人々の「木遣(きや)り歌」を合図に、会場の四隅に二本ずつ計八本のモミの巨木の「御柱」を立ちあがらせた。つづいて横綱曙(あけぼの)関の土俵入り、その力づよい四股に合わせて五万人の観客からの「ヨイショ」のかけ声がこだました。
大岡村に伝わる稲わらづくりの大きな道祖神のなかから、ダンサーが現れて踊りだすと、雪蓑(のみ)を着た「雪ん子」たち一五〇人が登場する。やがてその子どもたちは参加選手団の国・地域の旗の色を表わしたコスチューム姿になり、歌手の森山良子とともに「明日こそ、子どもたちが……」を歌いおどる。
つぎに、オリンピック冬季大会史上最多の、七二の国・地域の選手団の入場行進が始まる。大関貴ノ浪関が子どもを肩車し、もう一人の子どもと手をつないでトップのギリシャ選手団の前を歩き先導する。そのあとにつづく各選手団も羽織、袴(はかま)姿の力士、選手団名を書いたプレートを背中につけた子どもたちが先導し、日本各地の民謡を織りこんだ入場行進曲に合わせて行進した。開催国日本は最後を締めくくる。大関若乃花関と二人の子どもに先導された日本選手団が西ゲートに差しかかると、行進曲は長野県歌「信濃の国」をアレンジした荘重な曲にかわり、ひときわ大きな拍手がおこった。
入場行進が終わると開会式となる。NAOCの斎藤英四郎会長が「二一世紀のかけ橋となる長野オリンピックを『愛と参加』の大会とし、将来にわたり永く語りつたえられる最高の大会にしたい」とあいさつした。サマランチIOC会長が「オリンピック停戦の呼びかけなど、オリンピックの理想を通じて平和な世界を築いていこう」とあいさつし、名誉総裁の天皇陛下に開会宣言をお願いした。参会者全員が起立すると、天皇陛下が開会を宣言された。陸上自衛隊音楽協力隊が「冬の光のファンファーレ」を演奏し、オリンピック旗が日本を代表する冬季オリンピックメダリスト猪谷千春ほか七人によって運びこまれた。曲は途中でオリンピック賛歌(合唱・長野市児童合唱団)にかわり、オリンピック旗は陸上自衛隊旗衛協力隊の手で掲揚された。二人の雅楽奏者がセンターステージに上がり、龍笛(りゅうてき)(横笛)と笙(しょう)による「君が代」がひびいた。
いよいよ聖火の入場である。「明日こそ、子どもたちが……」の曲に乗って雪ん子たちの一群が入場する。義足義手の対人地雷廃絶運動家クリス・ムーンがトーチをかかげ、千葉真子(世界陸上アテネ大会一万メートル銅メダリスト)の姿も子どもたちのなかにみえた。一群は時計回りに場内をめぐり、アルベールビル、リレハンメル両大会のノルディック複合団体金メダリストの河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一にトーチをリレーした。センターステージで三人からトーチを受けた鈴木博美(世界陸上アテネ大会女子マラソン優勝)は、聖火台への一五九段の階段を確かな足どりでかけあがった。
鈴木が最後の急な階段に差しかかったとき、聖火台直下の扇が左右に開き、そこから伊藤みどり(アルベールビル大会フィギュア女子シングル銀メダリスト)が現れた。鈴木からトーチを受けとった伊藤は、上昇するリフトの上で点火した。ギリシヤのオリンピアで採火され、日本国内を約七〇〇〇人の手でリレーされてきた聖火はこのとき、赤々と燃えあがった。
センターステージで日本選手団主将の荻原健司、審判員代表の平松純子の宣誓が終わると、鳩の形をしたバルーンが一斉に空へ舞いあがった。その数は一九九八で大空に舞いあがった鳩風船の一つ一つに、平和への連帯を訴える長野の子どもたちの手紙が託されていた。開会式のフィナーレは、小澤征爾指揮の五大陸連帯の大合唱「歓喜の歌」であった。
第一八回オリンピック冬季競技大会(長野オリンピック)は、二月七日から二十二日までの一六日間、長野市を中心とする五市町村を会場に開催された。長野大会の参加国・地域は七二、選手・役員は四六三八人、新種目を含めて七競技・六八種目が実施され、その数は史上最多であり、二〇世紀最後のオリンピック冬季大会にふさわしい大会となった。
なお、この大会で目新しいことはカーリングが正式競技となり、スキー競技ではスノーボードが初めて実施されたことである。アイスホッケーの男子は、NHL(北米アイスホッケーリーグ)のプロ選手が初参加して「ドリームチーム」を結成、熱い戦いを繰りひろげた。
長野市域に特設された各競技会場は、トップレベルの選手がもてる力を十分に発揮できるように、世界最高水準の施設として整備され、世界記録は七種目、オリンピック記録は一六種目にわたって更新された。アルペンスキーは悪天候により一部日程の変更を余儀なくされたが、選手、役員、ボランティアら関係者の協力で期間内に全競技を終了することができた。
日本選手の活躍では、スピードスケート男子五〇〇メートルの清水宏保選手の金メダルに始まり日本中を湧かせた。そして日本はフリースタイルスキー女子モーグルの里谷多英選手、ジャンプラージヒルの船木和喜選手、ジャンプ団体の日本チーム四人、ショートトラックスピードスケート男子五〇〇メートルの西谷岳文選手と合計五つの金メダルに輝き、そのほか、銀一、銅四のメダルを獲得、入賞選手・チームは三三に上り、日本のオリンピックの成果として史上最高の成績であった。なお、大会の概要は表9のようであった。
長野市域に設けられた競技場と、そこで展開された日本選手を中心としたオリンピック競技の実際はつぎのようであった。
スピードスケート男女種目の競技場となった長野市北長池のエムウェーブは、一周四〇〇メートルの標準ダブルトラックを持つ国内初、世界でも最大級のカバードリンク(屋内リンク)であった。信州産カラマツの集成材を使った大規模なつり屋根構造をもち、建物の内部は木の香りとともに優しさとぬくもりを感じさせる。アルプス連峰などの信州の山脈を象徴する、連続する屋根と側壁の連なりは、M字型の波がわき起こるような形状をもつことから、愛称「エムウェーブ」の名がつけられた。この特徴的なデザインは、世界に長野を印象づけ、平成十年二月イギリスの構造技術者協力特別賞を受けた。内部は二つの可動式スタンドで、アリーナ空間をかえて、人工芝を敷けばスケート以外にも利用できる構造をもっていた。また、標高が低く高湿度という立地のハンディを乗りこえ、記録更新に貢献した製氷技術は国内外から評価をうけた。
スピードスケートは、日本選手陣のメダルへの期待もあって大会前から注目を集めた。清水宏保選手が、男子五〇〇メートルでスケート界念願の金メダルを獲得した上、一〇〇〇メートルでも銅メダルを得た。日本女子の岡崎朋美選手も五〇〇メートルで銅メダルを取り、二人の活躍はスプリント日本の名を内外に示し、観客は一一万八五五五人に達した。
フィギュアスケート・ショートトラックスピードスケートの競技場となった、長野市真島町のホワイトリングの建物は、水滴のようなゆるやかなこう配と丸みをもつ屋根でおおわれ、善光寺平にきらめく水玉をイメージしたものであった。白く輝く屋根の形から、「ホワイトリング」の愛称がつけられた。フィギュアスケートの華やかさと優しさをあらわしたデザインで、高さ三九・七メートルの大空間ドームは、楕円形の平面を持っている。全体としてアリーナ、観客席、外周廊下、ギャラリーが一体となり、ユニークな空間をつくりだしている。その建物は屋根を地上で組みたててから持ちあげるリフトアップ工法が採用され、工事の安全と周辺環境に配慮された。ホワイトリングにおいて、日本選手はショートトラックの部で活躍し、男子五〇〇メートルで西谷岳文選手が金メダル、植松仁選手が銅メダルを獲得し、大会のムードを盛りあげた。
長野市若里に建設されたアイスホッケーA会場は、長野市を取りまく山々の連なりをあらわしたデザインである。ゆるやかな球面を組みあわせたその屋根を、大きな帽子に見立てて「ビッグハット」の愛称がつけられた。建物の高さを最高約三五メートルにおさえたのは、周囲の景観への配慮からであった。内部は鉄骨の骨組みを露出させて力強さと躍動感をあらわした。収容人数が一万一〇四人の可動式の一階観客スタンドがある。ビッグハットでの日本選手の活躍は男女とも不振であったが、出場者はオリンピックへの参加の意味をかみしめていた。
アイスホッケーB会場として長野市吉田の長野運動公園内に設けられたアクアウィング(愛称)は、その名のように信州のさわやかな風と清流を表す流線型の大屋根が、舞いおりる翼のようにもみえる。氷上の格闘技アイスホッケーのパワーと、長野の街の活力をデザインしたといわれる、屋根を支えるV型の柱の並びが人々の目をうばう。本来の用途は屋内プールのため、常設の製氷設備がなく、すべて仮設で応急的に整備し、大会後は、五〇メートルと二五メートル、飛びこみの各プールを備えた国際公認屋内プールとして利用された。A会場にくらべて女子の試合が多く、しかも女子種目は長野大会から初めて採用されたこともあって、延ベ一一万三四一二人の観客が訪れた。日本チームは世界の強豪を相手に健闘し、大会を盛りあげた。
長野市浅川に設けられたボブスレー・リュージュの競技コースは、アジアで初めての人口凍結トラックである。歴代の冬季オリンピックで最も南の緯度にあり、斜面は日あたりが良く氷がとけやすく、現場は地すべりの危険もあってそのコースづくりは困難をきわめた。ドイツの専門家を交えての設計は、自然との共存を考慮し、自然の地形に合わせた結果、途中に二ヵ所の上りこう配がある前例のないユニークなコースになった。急こう配で幾重にも屈曲し、時速が一三〇キロメートルにも迫るというそりの躍動感になぞらえて、このコースは「スパイラル」の愛称で呼ばれた。コースの施工に当たっては自然にやさしい環境保全の観点から、世界で初めての「アンモニア間接冷却方式」や「表土復元工法」などを採用し、自然保護対策にも万全を期した。日本選手は八位以内の入賞者は皆無であったが、全種目に出場し健闘した。
長野市飯綱高原会場で、男女モーグル・男女エアリアルの両種目をふくむ、フリースタイルスキーの競技がおこなわれた。両種目ともに、飯綱高原スキー場の既存コースを利用した。会場の収容人数は、モーグル約八〇〇〇人、エアリアル約一万二〇〇〇人であった。モーグルにはとくに人気が集まり、熱狂的な若いファンが競技日の前夜から会場に殺到し、それにたいしてのパトロール、ファンの車の誘導など観客の入退場に関係者は腐心した。
二月十一日の女子モーグルの決勝は、日本の里谷多英選手が、ダイナミックなジャンプとスピードのある滑りで金メダルを獲得した。白馬村の高校生上村愛子選手も、七位に入賞し大会ムードを一気に盛りあげた。モーグルの競技音楽は、オリンピック史上初のエレクトーンの生演奏であった。
一六日間の日程を終えて、長野オリンピックは二月二十二日、閉会式を迎えた。天皇皇后両陛下がロイヤルボックスに着席されて間もない午後六時、場内にかがり火がともされた。スタンドを埋めた五万人が祭典のフィナーレを待った。選手団の入場が終わり、次々と長野伝統の祭りが披露されたあと、オリンピック発祥の地ギリシャ、開催国の日本、次期開催国のアメリカの順に、それぞれの国旗がポールに掲揚され、国歌が演奏された。オリンピック冬季大会旗(オスロ旗)をたずさえた塚田佐長野市長がステージに上がり、サマランチIOC会長の手を経て、旗は二〇〇二年冬季大会の開催都市、ソルトレークシティのディーディー・コラディーニ市長に手渡された。
NAOCを代表し、吉村午良副会長がステージ上で、長野オリンピックがめざした「子どもたちの参加」「自然との共存」「平和と友好の祭典の実現」が、すべての人々の愛と参加によって実現したことに感謝した。
サマランチ会長は「長野オリンピックは、オリンピックムーブメントが果たす役割を明確にした素晴らしい大会。冬季大会史上、最高のオリンピックを組織、運営してくれた長野、日本を祝福する」と閉会を宣言し、「ありがとう長野。さようなら日本」と結んだ。
祭りのフィナーレは花火で、清内路村に古くから伝わる手づくりの花火が登場、噴きだす火炎の粉(こ)が闇(やみ)に映(は)える。そのあと長野県花火組合が、総力をあげて五〇〇〇発の花火を打ちあげ、大輪が夜空に咲く。やがてセンターステージ上での歌と踊りにあわせて、グランドフィナーレを迎え、選手たちは再会を約束しあって、オリンピックの素晴らしさを大観衆とともに心にきざみつけた。閉会式が終わったのは午後七時四〇分であった。