パラリンピック冬季大会の開催

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平成三年(一九九一)六月十五日、第一八回オリンピック冬季競技大会の開催都市に長野市が決定されると、「もう一つのオリンピック」であるパラリンピック冬季大会の同時開催を実現するための活動が開始された。同三年十一月八日に、IPC(国際パラリンピック委員会)からのパラリンピックの開催要請があり、翌四年七月三十日、冬季パラリンピック長野大会推進会議が発足した。推進会議は、日本身体障害者スポーツ協会長を会長に、一三人の委員と二人のオブザーバーで構成され、長野市からは福祉部長が就任し、招致のための諸事業の推進に当たった。

 平成五年六月二十五日、長野市議会がパラリンピック冬季競技大会の招致議案を可決し、それと前後して県議会、関係町村議会も招致決議をおこない、大会開催の受け皿づくりが本格化した。冬季パラリンピック長野大会推進会議がIPCにたいして大会招致の申請書を提出したのは同年七月二十三日であり、ベルリン市で開かれた第四回IPC総会において、長野市が一九九八年パラリンピック冬季競技大会の開催都市に決定したのは、九月十日であった。十一月十六日、長野パラリンピック冬季競技大会組織委員会が設立され、開催にむけての本格的な活動が展開された。長野市は同年十一月三十日、長野市オリンピック・パラリンピック連絡調整委員会を発足させ準備業務の総合的な推進をはかった。委員会は、助役を委員長に庁内関係部長を構成員とし広報部、施設部などの九部会を設けた。平成七年四月一日、業務を専門的にすすめるために、障害福祉課内にパラリンピック室を設置した。

 その後、長野オリンピック六〇〇日前の平成八年六月十七日、市長を本部長とする長野オリンピック・パラリンピック長野市推進本部が設置され、長野市は大会時に職員を派遣する業務を総務・施設・環境・文化・観客・交通・オリンピック会場・パラリンピック会場の八部門に分けて、準備をすすめた。長野市および長野市民がパラリンピックの開催に向かって取りくんだ事業や活動はつぎのようであった。

 まず、大会推進事業としておもなものに、平成六年三月二十二日におこなわれた、大会開催の市民意識高揚と理解をはかるためのパラリンピック旗の歓迎セレモニーと、障害者のニーズにこたえた長野市川中島今井のパラリンピック村の建設があった。


写真42 パラリンピック旗の市内行進

 そのほか、各種市民団体による、人にやさしいまちづくりプロジェクトの推進もあった。ここでは、各種障害をもつ人々が、安全で快適な市民生活を送るためにどんな問題があるかを実態調査し、対応策をすすめた。

 長野パラリンピック冬季競技大会組織委員会(NAPOC)にたいしての、長野市の支援活動の第一は、一二億一〇〇〇万余円にのぼる運営補助金等の財政援助をすること、第二は、市長をはじめとして、市の幹部がNAPOCの副会長や組織委員に就任し、パラリンピックの準備および運営業務に参画すること、第三は、NAPOC設立の前後を通じて、延べ五一人の市職員を派遣して業務を推進することであった。また、それとは別に、大会時には各会場へ長期・短期の支援職員四六五人を派遣し、会場の整理にあたった。大会時消防局からは、警戒・救助のために延べ六四人が派遣された。

 長野パラリンピックへの市民参加の事例には、子どもたちの一校一国運動や標語・ポスターコンクールと、絵画・作文コンクールを内容とする小・中学生啓発作品コンクールの実践があり、一般市民によるとん汁サービスの実施、お土産の作成などの「はあてぃ長野運動」も展開された。

 また、一店一国運動、長野パラリンピックカウントダウンイベント実行委員会の行事、長野パラリンピック大会サポート実行委員会の各種の行事もおこなわれた。なかでも「ながのパラ・ボラの会」は、障害者団体とそれを支えるボランティアグループを中心につくられた団体で「開催都市の市民としての自由な立場でパラリンピックを盛りあげ、障害者理解を啓発する」を目的に、長野市内を中心にユニークな活動を展開して注目された。

 広報・啓発活動としての一〇〇〇日前、二年前、五〇〇日前、三〇〇日前、一〇〇日前、五〇日前のそれぞれの節目セレモニーは大会を盛りあげ、市民の参加意識を高めるうえで効果的であったといわれた。また『広報ながの』は、パラリンピックの啓発のうえで大きな役割を果たした。

 長野パラリンピック冬季競技大会の理念は、「世界の身体障害者が一堂に集(つど)い、人類共有の文化であるスポーツを通じて友情と国際親善の輪をひろげ、新たな可能性を見いだし、明るい希望と勇気をいだくことのできる大会をめざす」であり、大会テーマは「ふれあいと感動」とした。そして、メインスローガンは公募によって、「感動がひろがる つたわる わきあがる」、サブスローガンを「君が 輝く 98長野の冬」、「いま光る 生きるよろこび チャレンジ長野」に決定した。シンボルマークは、長野の「長」の文字を略したものと、雪うさぎのように、スピーディーに雪や氷の上を楽しく駆けまわり、競技に興じている様子を表現している。大会シンボルマークを基調に作成されたマスコットの愛称を『パラビット』とした。


写真43 パラリンピックのシンボルマーク

 長野パラリンピックの聖火は、昭和三十九年(一九六四)の「東京オリンピック」の会場であった東京都立代々木陸上競技場で、平成十年二月二十五日に採火され、聖火は神奈川県、横浜市、静岡県、愛知県、名古屋市、岐阜県を表敬後、二月二十六日に飯田市に到着、分火された。そこから県内を東西二コースに一二五の県下全市町村のリレーチームによって長野市に運ばれ、三月四日の開会式前日、セントラルスクウェアで集火され、翌五日にはそこから開会式場のエムウェーブまで二四区間の最終リレーがおこなわれた。開会式場で聖火台に点火された聖火は、大会の象徴として大会期間中燃えつづけた。

 開会式は三月五日一九時から二一時まで、エムウェーブで開催された。「希望(HOPE)」をテーマにして、式典と祭典の二部構成で、「火(聖火)」が重要なモチーフとして登場し、約一一五〇人の選手、役員、約七七〇〇人の観客が参加しての感動的な開会式が挙行された。演出を担当したプロデューサーは、中野市生まれの作曲者久石譲(総合プロデューサー)以下四人であった。

 第一部の式典は、式典序曲・ファンファーレ、選手団入場、NAPOC会長あいさつ、開会宣言、IPC旗入場・掲揚、聖火入場・点火、選手・審判宣誓、君が代演奏の順序でおこなわれた。第二部の祭典は、Hope(星の里)、Fire(火の郷)、Chaos(混沌)、Finale(旅立ち)の順序であった。


写真44 パラリンピック開会式の日本選手団
(『パラリンピック冬季競技大会 長野市報告書』より)

 大会競技は、五日のアクアウィングにおけるアイススレッジホッケーの予選、ノルウェー対日本に始まり、十四日の白馬村のスノーハープにおけるクロスカントリースキーの女子クラシカル一五キロメートルの競技で終了する、一〇日間の熱戦であった。日本勢は全大会を通じて金一二、銀一六、銅一三のメダルを獲得し、パラリンピック史上最多の成績であった。長野市関係選手の活躍ぶりは表10のようであった。


表10 長野市関係選手とその成績

 長野市関係選手に関する市長および市議会議員全員への記録報告会は、大会終了後の平成十年三月二十五日、市役所においておこなわれた。また、同年十月には平成十年度の市長表彰の市民栄誉賞受賞者として、長野パラリンピックメダル(表10)を獲得した青木辰子、金井良枝両選手を決定した。

 長野パラリンピックの閉会式は、平成十年三月十四日一八時三〇分から二〇時まで、エムウェーブで開催された。「希望と遺産」をテーマに、式典と祭典の区別をつけずに進行し、伝統を生かした新しい芸能「大田楽」を中核として、構成が工夫された。約一一五〇人の選手、役員、約八〇〇〇人の観客の参加のもとに選手団入場、国旗掲揚、喜びの舞(龍神と獅子)、NAPOC会長あいさつ、長野市長あいさつ、閉会宣言、総田楽と即興芸、IPC旗降納、引継ぎ、ソルトレークシテイのデモンストレーション、スーザン・オズボーン「上を向いて歩こう」、聖火納火、退場の順序で、厳粛にしかも感動的に進行され幕が閉じられた。

 パラリンピックを観戦した人々の声にはつぎのようなものがあった。「体の不自由な人たちがどうやって頑張っているのか、説明するよりレースを見た方が子どもにわかってもらえると思った」(松本市主婦)、「盲目の選手がすごいスピードで滑(すべ)っていく、ただ脱帽です。子どもたちも何かを感じてくれたと思う」(豊科町会社員男)(『信毎』)。

 長野パラリンピックの成果として長野市はつぎの四点をあげている。①ボランティア活動の発展、②障害者理解の促進、③やさしいまちづくりの推進、④障害者スポーツの振興(『一九九八年パラリンピック冬季競技大会 長野市報告書』)。大会の概要は表11のようであった。


表11 大会概要