一校一国運動の推進と国際親善活動

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平成十年(一九九八)二月七日から二十二日まで開催された第一八回オリンピック冬季競技大会と、三月五日から十四日まで開催された第七回パラリンピック冬季競技大会を迎えるにあたり、長野市の小・中・特殊諸学校の児童・生徒や教職員は、一校一国交流活動を通じて国際理解と親善を深めた。

 長野市では、冬季オリンピック開催の基本理念のなかに「子どもたちの参加」「平和と友好の祭典」「自然との共存」をかかげ、その実現に向けて様々な活動に取りくんだ。平成六年十二月の市議会において、塚田佐市長は、広島で開催されたアジア大会では、公民館が一館ごとに一国と交流して、国際理解を深めたことを参考にして、長野市らしい取組を目指したいと答弁し、七年三月には滝澤忠男教育長が、「オリンピックの開催はまたとない国際化教育のよい機会として一校一国などの複数の方法を検討中、各校の発想を大事にしたい」と市議会で答弁した。六月に市校長会は、一校一国交流活動に関して、活動方法の検討や各校の国際教育の推進状況の把握をすすめ、教職員の研修などについても取組を開始した。

 国際親善クラブや市教育委員会の支援を受けながら、平成七年十一月には前回の冬季オリンピック大会の参加国を参考にして、各校に希望交流国のアンケートを実施し、八年一月に交流相手国・地域を決定した。交流相手国・地域が決まったことから、各校の活動も具体的にすすみはじめた。活動を充実させるための各校の取組をみると、係の校務への位置づけが七一校、展示コーナー設置が六五校、児童会・生徒会への位置づけが六二校、教職員の研修実施が五六校、放送による紹介が四八校、ホームページの開設が四四校などとなっていた。

 オリンピックやパラリンピック、相手国・地域の言語・文化・生活などについての学習が広がり、東京社会見学へ行った際に、交流相手国の大使館を訪問するなどの活動が実現していくなかで、相手国・地域の人々と直接に交流したいという要望も高まっていった。しかし、初めて経験する活動にくわえて、情報不足の国々も多く、相手国・地域の関係づけでは、すぐついた二一校、苦労した四五校、つかなかった一一校となっていた。

 このような一校一国交流活動を、つぎのような組織が支援していた(『世界の人とともに生きる 一校一国交流活動の記録』)。

①長野国際親善クラブ 外務省、各国大使館・領事館、海外機関との連絡 親善クラブの会員の派遣やアドバイス

②NAOC 来日オリンピック関係者を学校へ紹介

③市オリンピック局 参加国・参加選手の把握 オリンピックに関する問い合わせ ぬいぐるみ・パネル等の貸し出し 「はあてぃ長野」推進運動との連携

④NAPOC 参加国・参加選手の把握 パラリンピックに関する問い合わせ ぬいぐるみ・パネル等の貸し出し

⑤信越郵政局 国際郵便等の差し出しに関するアドバイス 文通相手の紹介など

⑥長野青年会議所 エムウェーブ入り口に設置のレリーフの制作に関すること

⑦市国際室 交流国に関する情報・資料の提供 国旗・卓上旗の貸し出し


写真45 一校一国運動でオリンピック選手と交流

 支援組織の支援とともに、新聞社の協力、相手国の事情に詳しい人からの情報提供、在日外国人を窓口にするなど、様々な善意に支えられて交流活動が進展していくいっぽうで、大使館閉鎖や大会不参加を決定する国もあって、交流を断念して相手国の変更を余儀なくされる学校もあった。

 平成八年から多くの学校で、交流相手国やオリンピック・パラリンピックなどについての学習がすすめられていった。児童会・生徒会活動では、交流活動や交流会の様子を国際交流新聞を発行して紹介したり、相手国の選手が学校を訪問した折に、その国の言葉で挨拶が言えるように取りくんだりした。教科の学習では、空想画で相手国を表現したり、相手国の言語・経済・食文化・国歌・国旗などについて調査し、発表しあって国際理解を深めた。また、クラブ活動ではリュージュクラブを設立し、リュージュ選手との交流を実現した学校もあった。

 平成九年になると、児童・生徒が、外国人と直接交流する活動が飛躍的に増加していった。九年三月に開催されたオリンピック前国際競技大会で来日した選手、国際交流員、AET(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー)、訪問した大使館の館員などで、誰と交流したかをみると、選手・役員六七校、国際交流員三一校、AET三〇校、大使館員二六校、留学生二一校などであった。交流会に地域やPTAの協力を得て、外国人に和服を着てもらい日本の文化を紹介する学校もあった。言葉・料理・音楽などを通して相手国の文化を理解するとともに、「『自分の国をよく知ってからでないと他の国は理解できない』と言われるように、わたしもまず自分の国を見直し、それと比較しながら外国を学んでいくことができるようになった」との感想を持つ生徒も多く見られた(『世界の人とともに生きる 一校一国交流活動の記録』)。交流会のプレゼントには、習字・お守り・折り紙・和紙人形・百人一首・箸置きなどがあり、児童・生徒の日本の伝統・文化にたいする理解が広がる機会ともなった。


写真46 一校一国運動でパラリンピック出場選手を迎える

 世界平和への願いや障害を乗りこえて競技に参加する障害者の姿からも、児童・生徒は多くの影響を受けた。折からの内戦で多くの犠牲者を出していたボスニアは、昭和五十九年(一九八四)にサラエボで冬季オリンピックを開催しており、ボスニアとの交流では、地雷の被害にあった小学生との手紙の交換などを通じ、平和について真剣に考えあった。パラリンピックに出場した日本選手が訪問した中学校では、選手の「スポーツを通して残された可能性」を大切にする心を伝える姿や、「目標を持って絶対にあきらめないでほしい」と語る言葉から、心に残るメッセージを受けとった(同前書)。

 長野オリンピック・パラリンピックを成功させるために、諸機関や団体の事業にも多くの児童・生徒は積極的に参加した。交流相手国のことを表現したレリーフを、エムウェーブの入り口に設置するという長野青年会議所の企画では、平成八年五月に版画家池田満寿夫の指導を受け、十二月のエムウェーブの竣工式の際、レリーフ完成の披露式典も実施された。八年九月にはノルウェーから犬ぞり・ヨット・自転車でやってきた環境使節団の歓迎、長野オリンピックの文化プログラムの一環として九年二月におこなわれた、五大陸の子どもたちの演奏会(ガラ・コンサート)への参加と鑑賞、オリンピック開始一〇〇〇日前から始まったプレイベンドへの参加などにより、交流と理解を深めていった。

 平成九年度に一校一国交流活動に参加した校数、児童・生徒数は七五校・三万六五〇七人で、十年一月三十日現在の各学校の交流相手国は表12のとおりであった。二月開催のオリンピック、三月開催のパラリンピックでは、各学校では休業日を設け、児童・生徒は交流相手国の選手の応援などをはじめとした様々な体験から、大きな感動を得た。


表12 一校一国運動の相手国・地域一覧 (平成10年1月30日現在)

 オリンピック・パラリンピックの開催は、長野市民にとっても国際親善活動を広めるうえで、貴重な機会となった。平成八年五月、長野オリンピックを、世界の人々と出会い、交流を通して国際感覚や温かいもてなしの心を養う機会ととらえ、市民の支えで成功させることを目指して、ボランティアの募集が、NAOC・市町村・長野県庁などを窓口にして始まった。すでに三月末までに予備登録者は五六〇〇人余いたが、本登録に際して意志確認をするとともに、一万人の登録を目標にしていた。ボランティアの業務内容は、①案内・接待、シャトルバスの添乗、②入場券・グッズ販売、③会場整理、④会場・施設清掃、⑤専用車運転、⑥ホームステイなど一八項目があった。ボランティアの研修は長野オリンピックボランティア推進会議が担当してすすめた。

 世界平和と友好の実現を願って、平成十年二月に一六日間にわたって開催された長野オリンピックには、史上最多となる三七六九人の選手・役員、一万人余のメディア関係者、一四四万人余の観客が参加した。長野市民の多くが、ボランティア活動や「はあてぃ長野運動」などを通じて、オリンピックを支え国際親善を深めた。はあてぃ長野運動は、市内のすべての地区を単位に組織した協力会により、選手・役員・観客を温かくもてなすことを目的とし、おもに①駅周辺、開閉会式会場周辺、歩道などの除雪、②会場周辺、観客用駐車場での飲食物のサービス、③会場周辺や沿道へ飾る葉ボタンの栽培、④てまり、和紙人形、扇子などのお土産の作成、の活動をおこなった。

 競技スケート会場となったエムウェーブの地元の大豆島地区では、地区ぐるみで道路の除雪、清掃美化、豚汁サービス、芸能大会などに取りくんだ。また、ボランティアにたいしては、住民が自家用車で銭湯へ案内したり、自宅で歓迎したりするなどして支えた。選手村が置かれた川中島町では、住民が選手との「ざっくばらんな集いの場」をもとめて、帰国まぎわのポーランド選手団を招いてさよならパーティーを催した(『信毎』)。保育園児がつくった金メダルもおくられ、選手団の副団長は、「住民が自発的に、こんな素晴らしいゲストハウスを開いてくれてとてもうれしい。一生懸命もてなしてくれる姿勢はポーランドと同じだね」と語っていた。三月開催のパラリンピックでは、選手村に長野をはじめ全国から、日本の伝統文化である和紙人形・手まり・お手玉などのお土産約四万点が寄せられ、参加選手にプレゼントされた。オリンピック・パラリンピックを通じて、長野市民が外国の選手や訪問者と直接触れあい交流したことは、国際理解や国際親善の発展のための大きな財産となっていった。//819p