長野市若里の旧卸売(おろしうり)市場には水産市場二社、青果市場二社、関連問屋二六社が入っていたが、昭和四十五年(一九七〇)ごろから移転計画が浮上した。一日約四〇〇〇台が出いりする長野市場団地で、「午前六時半から九時のピーク時には駐車場所もままならない。車はだれにぶつけられたかわからないまま、いつの間にかへこんでいた。出いりの小売業者も早く広い場所へ移転してほしい」と訴えていた。
そこで、長野市は四十六年に関係業界の要望をうけて計画を策定し、農林省に申請したところ、翌年に農林大臣の諮問機関である卸売市場審議会にかけられ、その答申によって建設地に指定された。これをうけて長野市は四十八年から五十年にかけ、市土地開発公社が七億六〇〇万円を起債で、残りの七億四〇〇〇万円は金融機関からの借り入れで合計一四億円余りを手あてし、長野市真島と牛島の果樹地帯に一七・五ヘクタール(二〇・七ヘクタール)の八十数パーセント)を確保した。うち、七ヘクタールを若里の旧市場に入っていた業者の移転用にあて、七ヘクタールを関連の業者に分譲し、残り六ヘクタールは道路用地とする計画であった。これによって卸売市場法に基づく中央卸売市場(公設市場)の建設の受け皿がととのった。
しかし、移転・開設にあたり、法律的に必要な鮮魚部門の業者間の統合が難航した。すなわち市有地に農水省の補助が受けられる中央卸売市場を建設した場合、卸売市場法は市場参加業者の競(せ)り売り以外の業務を認めていないので、各業者の従来業務のうち競り売り以外の卸売業務を別会社に分離しなければならず、業者のマイナスが大きかった。また、オイルショックを契機に国の補助率がかわり、その後の流通機構の変化もあって、公設市場は地方都市ではほとんど赤字になっていることなどから、市は五十八年(一九八三)四月、公設を正式に断念し、民営の新卸売市場とするよう方向を転換し、六十年に開設するとした計画をたてた。ところで、市公社の用地買収は五十七年から五十九年にわたって三・二ヘクタールを買いまししたことも手伝って、借入金は五十九年度末で、土地購入費、利子など四二億円にのぼり、金利が金利を生む雪だるま式借金の状態におちいっており、状況は一刻の猶予(ゆうよ)も許されなかった。
六十二年十月の開業(予定)にむけ、長野市真島町の新卸売市場(団地)の造成工事が六十一年七月から始まった。およそ二〇ヘクタールの市有地のほかに、中部電力の鉄塔敷きなど民有地があり、市と民有地所有者(三者)との共同施工による土地区画整理方式で、場内道路などを整備した。市土地開発公社が先行取得を始めてから一四年目にして団地造成を始めることになった。新卸売市場団地は、旧若里市場団地(五・四ヘクタール)の約四倍の広さである。
生鮮食料品をあつかう卸売市場は、市民生活に欠かすことのできない公共性の高い流通機関であることから、多くの時間をかけて議論が積みかさねられた。その結果、長年の民設市場の経験を生かして市場移転をおこなうことが決定された。第四次卸売市場整備計画の精神にのっとり、開設者を一本化するため、長野市と青果・水産の卸売業者により「(株)長野地方卸売市場」(開設者)を設立して、全国でも最大規模の民設民営の地方卸売市場が、昭和六十三年四月にオープンした。総工事費二〇〇億円をかけ、各企業の建物の壁面線、庇(ひさし)線が統一され一棟の形をなすよう工夫をこらすなど、卸売市場諸設備を機能的に設置したうえ、環境衛生設備を完備した近代的な卸売市場としてスタートした。長野市をはじめ、北信一帯から新潟県の一部をふくむ八〇万人の台所をまかなう総合市場である。全国的に注目された市場であったので、平成元年度(一九八九)の視察者数は海外六団体・五〇人をはじめとして合計九六団体・五五〇〇人にのぼった(『市場概要』平成二年四月)。
四月十一日七時花火の合図で業務が開始された。関係者らで三・三・七拍子の景気づけのあと初競り売りがおこなわれた。鮮魚部門の一番競り売りは縁起物の鯛であった。同月二十四日には開場記念式典がおこなわれ、花火の打ちあげとともにテープカット、自衛隊音楽隊のパレードがおこなわれた。
長野地方卸売市場は、資本金五億円(払込済一億九五〇〇万円)、昭和六十一年五月の設立で、その構成は、長野市、長野中央市場協同組合と株式会社四社からなっていた。出資額のうち、長野市分は開設時五〇〇株、平成二年(一九九〇)増資二八〇株計七八〇株(三九〇〇万円)で総株数(三九〇〇株)の二〇・〇パーセントをしめている。また、この協同組合は、昭和三十八年九月に設立されたもので、二五企業を組合員とし、一二五六株(全体の三二・二パーセント)を所有している。このほか開設者(長野地方卸売市場)がおこなう管理業務以外の協同事業を担当する長野卸売市場協同組合がある。それは組合員五七企業、出資額二七二八万円で、六十三年三月に設立された(長野市農政課資料、『市場概要』平成三年度)。
市場を構成する業者は五つに分けられる。①卸売業者は青果関係が二社、水産物関係が二社で、長野県知事の認可を受け、全国各地から出荷された荷を市場内で仲卸売業者や買受人に販売する。②仲卸売業者は青果一七社、水産物一五社をかぞえ、開設者(長野地方卸売市場)の認可を受け、市場内に分荷販売の店舗をもつ中間業者である。この業者は、卸売業者がおこなう取りひきに参加して商品を買いうけ、荷わけしたり加工したりして買受人や買出人に販売する。③関連事業者二八社は開設者の許可を受け、市場内に店舗をもち、卸売業者の取扱品目(青果、水産物)以外の物品を販売したり、市場利用者にたいしてサービスを提供する業務をおこなう。④買受人は青果関係六四〇人、水産物関係五〇〇人おり、開設者の承認を受けて、仲卸売業者と同様に取りひきに参加し、商品を買いうける小売業者である。専門小売商、スーパー、生協、加工業者などである。⑤買出人は開設者の承認をうけ、市場内の仲卸売店舗や関連事業店舗で商品を仕入れ、一般消費者に販売する小売商や大口需要者などである。食堂、レストランなどがこれにあたる(『市場概要』昭和六十三年八月)。
競り売りは、資格をもった競り人が、仲卸売業者や買受人に商品の価格の競りあいをさせ、最高値をつけた者に売るものである。
昭和六十三年度(初年度)の総取扱高は一億二四六五万円であったが、その内訳は青果卸売業者二八・三パーセント、水産物卸売業者二三・六パーセント、青果仲卸売業者と水産物仲卸売業者がそれぞれ一〇・八パーセント、一一・六パーセント、残り二五・七パーセントは関連事業者分である。卸売業取扱品目で金額の多いものは野菜で、たまねぎ(一七億円)、トマト(一三億円)、きゅうり、レタスの順、果実ではみかん(一九億円)、メロン類(一四億円)、りんご(ふじ一三億円)、水産の鮮魚ではまぐろ(二〇億円)、かじき(一六億円)、はまち、さんま等である。冷凍ものでは輸入えび(一六億円)、塩さけ(一四億円)が上位をしめている(『市場概要』平成元年六月)。
その後の卸売業取扱高をみると、図7のように、青果では平成三年度に四三五億円におよんだが、平成十一、十二年度には三六〇億円台、十三年度には三四五億円と停滞している。これは、近年の中国をはじめとする世界各地から野菜が空輸されて、輸入物に県内産野菜の生産・消費が抑制されたり、農産物の産地直送が注目されて、小売店・消費者と農家との直接取引がふえるなど、流通構造が変化しているためである。いっぽう、水産物では八年に三六二億円とピークをなしたあと、十三年度には二六九億円にまで大幅減少している。その要因としては加工食品(佃煮、かまぼこ、粕漬類等)の落ちこみ、ついで冷凍ものの減少が影響している。