郊外大型店と市街地の再生

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長野市内の土地区画整理事業は、昭和六十二年(一九八七)現在で、施工中・計画中のものが一〇ヵ所、対象面積は合計約三〇〇ヘクタールにのぼっていた。このうち、大字稲田地区の稲田西土地区画整理組合の事業はもっとも早いものである。同組合は昭和五十三年一月に設立認可されたが、二四・五ヘクタールの面積を足かけ一三年という長丁場で平成三年(一九九一)二月に竣工した。

 若槻大通り(主要地方道長野荒瀬原線)が開通したのは六十一年八月で、一年余の間に店舗は二〇をこえた。駐車場完備の書店、自動車の販売店と喫茶を併設した都市型複合店、一〇〇台の駐車場と豊富な資金をもつチェーン店も出店した。つづいて、平成六年暮れ、稲田・徳間両地区には新しい道路がつぎつぎとできたうえに、若槻バイパスから東へ田園地帯を突っきるように約一・二キロメートルの幹線道路が完成し、周辺の商業地化が急速にすすんだ。


写真50 若槻大通り

 いっぽう、市内稲里地区の稲里中央土地区画整理事業は、長野都市計画事業として施行され、県下最大となる総面積約六二・八ヘクタール、地権者約二五〇人、総事業費約一二〇億円ときわめて大規模な事業であり、地区の中央をはしる都市計画道路更北新橋線は、国道一九号長野南バイパスとして広域交通網の中心となっている。これは、更埴インターから八・五キロメートル、長野インターから四キロメートルで、アクセス道路の整備にともない、高速道も利用しやすいものである。

 当地区農業は米とたまねぎの二毛作を中心として、果樹や野菜等のすぐれた農作物を生産してきた肥沃な農地に恵まれてきたが、宅地開発が虫くい的にすすむ(スプロール化)と同時に、農業従事者の高齢化・後継者難も深刻な問題として提起されていた。そこで土地区画整理事業により、都市計画道路を中心に公共施設の整備改善と宅地の利用増進をはかり、健全な市街地の造成をはかろうとした。施工前の地目は農地割合は八一パーセントであったが、施工後には農地はわずか八パーセントにすぎず、かわって宅地が五七パーセント、道路は国道一九号を中心に二四パーセントと著しく増大している。事業は平成四年組合設立認可となり、十三年六月に事業が完了した。

 長野市で昭和五十五年から平成十一年までに出店した一〇〇〇平方メートル以上の超大規模小売店舗を地区別にみると、稲里地区が八件、三万三〇〇〇平方メートルで最高、ついで若槻地区が四件、六四〇〇平方メートルであった。また、三〇〇平方メートル以上一〇〇〇平方メートル以下の中型小売店舗は五十八年から十一年までの間に若槻地区一九件、一万一〇〇〇平方メートル、稲里地区は一七件、一万三〇〇〇平方メートルで、他地区とくらべてひときわ目だっている(『長野市の商工概要』平成十四年度版)。市街地の高地価と複雑な所有関係にたいして、車社会に合った大駐車場の確保も可能な郊外は、大型店にとって格好の進出先であった。オリンピック開催に合わせて周辺の道路網が整備されたことも大きな影響をおよぼした。

 売場面積規模でもっとも店舗数の多いのが二〇~五〇平方メートル層であるが、表13によると、八年間におおかた減少している。いっぽう、五〇〇平方メートル以上規模層では若槻、稲里、御厨において増加しており、土地区画整理事業にともなう大型店の郊外出店がみられたのである。


表13 売場面積規模別小売店数(単位:商店数)

 長野商工会議所などが毎年七月に主に中心市街地で実施している歩行者通行量調査で、平成十二年(二〇〇〇)の総歩行者数は平成三年からの一〇年間で最低の三八万人弱にまで落ちこんだ。ピークの平成五年にくらべると、三二・九パーセントも減少し、市街地空洞化の深刻さを示している。もっとも減少幅の大きかったのはSBC通りの宇木で三七・三パーセント減、長野そごうに近い長野銀座は一八・七パーセント減(ダイエー長野店はその五ヵ月後に閉店)で、長野銀座をはさんで、中央通り南寄りの北石堂町と同北寄りの大門信用金庫はいずれも二〇パーセント近い減少であった。

 こうした中央通りぞいの商店街の活性化のために、早くからさまざまな取りくみがなされていた。平成元年八月には、中央通りぞいの五八〇メートル区間の商店約一五〇店は、表参道街づくり協議会を結成し、アーケードをとりはらい電線を地中化し、歩道の拡幅と合わせてゆったり歩けるよう、公園化する相談をはじめた。門前町という歴史の重みを生かした物語りの街づくりが必要であり、歌舞伎や能の公演ができる文芸座の建設もなされた。門前町の歴史、文化を見なおす動きは若手商店経営者を核に広がっていき、何軒かの商店はいずれも店の土蔵を改装してミニ博物館(手持ちの絵画など)をひらくなど、地域の文化振興に動いた。また、観光型の酒造工場「西之門」がオープンした。この施設は、同町の酒造会社がまちづくりのため、できるだけ多くの人に訪れてもらいながら保存していきたいと、設備をふくめて約一二億円をかけて整備したものである。


写真51 アーケードや電柱のあった中央通り

 いっぽう、市はこうした民間の動きとともに、平成三年度から商店街が駐車場設置やシャッターのシースルー(透視)化などに共同で取りくむ事業に助成することにした。大型店の出店規制緩和で中小商店を取りまく環境がきびしいなか、商店街の基礎体力を養う動きを支援することになった。市商工業振興条例を一部改正して、駐車場は国庫助成のある用地取得の場合以外に、三〇〇平方メートル以上を賃借する場合に賃料の二割(上限五〇万円)を五年間、市で新たに助成することにした。商店街のシースルー化は、商店街環境整備事業として、小売り業者三軒以上の工事で、事業後の夜一〇時までの照明を条件に一件一〇〇万円を上限に、事業費の三分の一を補助することにし、明るいイメージづくりをねらった。中央通り、篠ノ井中心街、松代の木町通りなどの活性化の一助として期待された。

 長野そごうは、平成十二年七月十三日、長野地方裁判所に自己破産を申請したが、そごうグループのうち、全国で閉鎖した三店舗の一つに数えられ、負債額は二月末で八七億円余と、県内小売り業では過去最大規模のいきづまりとなっていた。その長野そごう跡地に平成十四年八月、信越放送が移転することが決まった。跡地約六九〇〇平方メートルと建物を、管理する破産財団から取得し、現ビルを取りこわしたうえで、再開発方式で新ビルを建設するというものである。隣接地で計画が中断している「長野銀座A-1地区再開発事業」とともに、新たな再開発計画を策定し、十五年秋までに着工し、十八年(二〇〇六)春の完成を予定している。信越放送の新しいビルには本社機能とテレビ、ラジオの放送施設を移し、十八年に始まる予定の地上波デジタル放送に備え、早ければ十五年末に建物を取りこわし、建設に着手することになった。


写真52 昭和通り旧そごうデパート前

 ダイエーは平成十年十月に、若里のオリンピック施設(プレスセンター)の後利用としてハイパーマートを出店した。出店が決まった当初は新田町の同長野店と二店舗の経営を維持していくとされたが、市街地の店舗の業績不振・赤字つづきにより、契約期限ぎれをもって十二年十二月に閉店した。長野店の後利用については、鷲澤市長が土地・建物を市で取得・活用しようとし、約二億四〇〇〇万円の補正予算が、平成十四年六月定例市議会最終日の二十四日に可決された。

 長崎屋長野店の市内高田への転出(平成十年一月、同年三月開店)につづいて、そごう破産とダイエー撤退で、商店街の灯火は消えかかっていただけに、新たなそごうの後利用決定に関係者の喜びはひとしおであった。A1地区市街地再開発準備組合(一〇地権者)の組合員で七〇代の店主は「店は自分の代でたたむつもりだが、若くてやる気のある地元の店がテナントで入ってくれるといい」(『信毎』)と期待した。空洞化がすすんでいた中心市街地の同市新田町一帯は、市の旧ダイエー長野店ビルの取得につづき、長野そごうの跡地利用確定と再開発計画が動きだすことで、活性化にむけた新たな段階をむかえた。