農業の災害補償

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長野市農業はりんご(果樹)と米生産を主軸としてなりたっている。それと野菜等もふくめた農産物の粗生産額は六十年度(一九八五)には二一三億円であったが、平成十二年度(二〇〇〇)には一四五億円にまで減少している。そのなかで米は六十年度の四二四億円(一〇〇・〇)から十二年度の二三二億円(五四・七)へ、果実は同期間に一一五六億円(一〇〇・〇)から八七三億円(七五・五)へと減っている。米の減収は都市化の進展にともなう農地の改廃によるところが大きく、六十年度の水田面積は二八二七ヘクタールであったが、平成十二年度には一六三二ヘクタールに減少している。さらに減反政策による生産調整を迫られて、水稲の転作率は六十年度の二四パーセントから平成十二年度には五〇パーセントにまで強化されている。

 農業経営でみても一・五ヘクタール以上の農家数は減少し、農業従事者の高齢化・女性化はいっそう強まっており、都市近郊農業の弱体化はいなめない。こうした農業構造の変化にともなう農産物の減少に、農業災害が追いうちをかけてきた。それによる農家所得の減少を食いとめてきたのが農業共済補償制度である。この共済事業は、農業経営の安定と農業生産力の向上を目的とした昭和二十二年(一九四七)制定の農業災害補償法にもとづいたものである。

 長野市において現在おこなわれている事業の種類は、農作物共済(水稲・麦)、家蓄共済(牛・馬・豚)、果樹共済(りんご・ぶどう・もも)、畑作物共済(大豆・ホップ・蚕繭)、園芸施設共済(プラスチックハウス・ガラス室等)となっている。果樹共済は加入方式が六十一年から多様となり、各種自然災害・病害虫・鳥獣害を対象とするものから暴風雨のみのものまで、幾種類ものメニューのなかから農家が選択加入できるようになった。水稲の共済は水田二〇アール耕作規模以上の層が加入(「当然加入」)の対象となる。

 共済金は、生産物の被害が基準収穫量の三〇パーセントをこえた場合に支払い対象となるが、水稲では被害を被りやすい度合いによって、市内農業地域が九「危険段階」に分類され、共済掛金率に格差がつけられている。もっとも掛金率の高い(六・二一パーセント)のは、浅川・小田切・芋井のうちの山間高地、もっとも低い(〇・八一パーセント)のは吉田・古里・下氷鉋の三地区とされている。

 長野市内の農業災害を通覧すると、水稲とりんご災害(補償)が圧倒的であり、その両者の支払共済金の多い年度を摘出したのが、表14である。水稲の凶作は冷害(昭和五十一、五十五、五十八、平成五年度)、台風(五十七、五十八、平成七年度)、干害(五十七年度)によるものであり、りんごでは、ひょう害(五十三年度)、干害(五十七、平成六年度)、遅霜(六十二年度)、台風(五十七、平成三、六、十年度)が原因となっている。


写真53 平成10年9月23日の台風7号によるりんご落果の大被害 (外戸孝雄所蔵)

 昭和五十一年度(一九七六)は六月下旬から、オホーツク海の高気圧から寒気が日本列島に流れこみ、寒気が居すわる形となった。七月は例年より六日遅く梅雨明けとなったが、夏型の気候は長つづきせず、八月に入り、再び寒冷前線が本州上に停滞し、このうえを一日おきに低気圧が通過して雨と低温で梅雨のもどりを思わせた。このため八月上旬の最高気温は長野市で二一・四度と明治二十二年(一八八九)の測候所(中央気象台)開設以来二番目の低温となった。

 昭和五十五年の夏は、八月を中心に明治以来の三大冷害年といわれる明治三十五年、同三十八年、大正二年(一九一三)などに匹敵する低温・多雨・日照不足の異常な天候にみまわれた。長野県内は、六月末から上空に著しい寒気が流れこんで低温に転じ、以後十月上旬までいちじるしい低温・多雨・日照不足がつづいた。この異常冷夏によって農業は大きな冷害をこうむった。


写真54 冷夏によって秋になっても実らない浅川の水稲

 平成五年(一九九三)五月三十日に平年よりも一〇日早く梅雨入りした。その後オホーツク海高気圧が強まり、梅雨前線が南下し本州付近に停滞したため、その上を低気圧が頻繁に通過して前線を刺激した。いっぽう、太平洋高気圧は例年になく発達が弱く、日本列島は昭和二十六年以来はじめて梅雨明け日を特定することができなかった。九月も太平洋高気圧の勢力は弱く、厳しい残暑が現れなかった。上旬はじめと旬末には台風第一三号と一四号が南岸沿いの秋雨前線を刺激し、活動が活発となった。

 長野市の六月から八月にかけて月別平均気温の平年との差は六月マイナス〇・二度、七月マイナス一・三度、八月マイナス二・三度、九月マイナス〇・八度であった。降水量は六月、七月には平年よりも少なかったが、八月では一四二ミリメートルで平年より五〇ミリ多かった。日照時間は長野市では平年の七七パーセントにしか過ぎず、とりわけ七月の一一五時間(平年比五〇時間過少)、八月の一三〇時間(同六二時間過少)、九月一〇六時間(二四時間過少)は農作物に深刻な影響をおよはした(図8参照)。


図8 平成5年の気象図(半旬別)
(関東農政局長野統計情報事務所『長野米データーブック』平成11年6月より)

 七月、八月の低温・日照不足と長雨のため水稲を中心に農作物全般が大きな被害をうけた。水稲は春からの低温で成育が遅れ、幼穂形成期から出穂・開花期にあたった七月下旬から八月上旬は平年を大きく下まわる低温に遭遇した。この低温で障害型冷害が発生し、八月以降の登熟期も低温であったことから遅延型冷害および前者と後者の複合型冷害が併発したため、水稲は大きな減収となった。また、いもち病の発生もそれに追いうちをかけた。

 平成六年七月十二日、平年より八日早く梅雨が明けたあと、日本付近をおおう亜熱帯高気圧の勢力が強く、九月の初めまでつづいた。このため台風の接近もなく、またフェーン現象による気温の上昇も加わって猛暑となり、記録ずくめの夏となった。七月、八月の平均気温は三度ないし二度高く、観測開始以来の最高となった。八月の降水量は長野市では一二ミリメートルと第二位の少雨を記録した。

 いっぽう、水稲ではまれにみる高温、多照の好気象に恵まれたことから、作柄は県の作況指数が一一五の良、北信が一一二となったが、春先から雨が少なかったため、ため池、沢水、小河川を水源としている地帯では干ばつの影響をまともにうけ、出穂しない稲や出穂しても登熟不良から不稔米やくず米となるなど、局地的に甚大な被害となり、篠ノ井信里、信更、七二会など、中山間地を中心に五七三戸へ三六七〇万円の共済金支払いとなった。

 平成十年九月二十二日の台風七号の強風のために、りんごやプラスチックハウスに大きな被害が発生し、支払共済金の額は、過去二〇年間で二番目に高い状況となった。とくに果樹共済では、台風七号の強風のため、綿内・長沼・真島・川田・朝陽等の千曲川沿いの地域を中心として、果実の落下・枝ずれなどの大被害が発生し、市果樹共済始まって以来の大被害となった。また、園芸施設共済でも同じ台風の強風のため、朝陽・清野・大豆島・川田・綿内・東福寺地区を中心として、プラスチックハウスの被覆材や本体が破損したことによる被害が生じ、前年度につづく大きな被害となった。

 このような農業災害と支払共済金の関係をあらわしたのが表14である。水稲・りんごの農家負担掛金は共済加入全農家の掛金総額であり、支払共済金は被害のあった加入農家に支払われた金額である。災害時には掛金総額の五倍ないし一〇倍の共済金が支払われていることから、農家経営の安定にとっては、不可欠な補償制度である。しかし、制度自体にはつぎのような課題をはらんでおり、善処がせまられていた。


表14 農業災害補償の推移

 五十五年産果樹について、長野市は県連合会のモデル地区指定をうけ、農家にたいして共済「引受」の拡大につとめ、その成果は前年の七九二戸、二七七ヘクタールから一〇五二戸、四三五ヘクタールにいちじるしく増大したが、五十七年度には七六九戸と、再び元にもどってしまった。六十一年産から果樹共済のメニューを豊富化したことはすでに述べたが、その成果は六十二年度に一〇五三戸、三二二ヘクタールとピークをなした。しかし、その後、減少傾向は止まらず、平成十年度には六七一戸、一六九ヘクタールにまで落ちた。いっぽう、水稲では、耕作放棄のほかに、農地改廃・減反・米価低落などによって農家を取りまく環境が厳しさをまし、五十年度の一万三二七五戸、三一八三ヘクタールから平成十年度には五四三一戸、一〇三三ヘクタールに、面積では三分の一にまで減っている。

 ここに、市町村別の農業共済組合は事務組合化して合理化を図らざるを得ない事情があった。実際、長野市の共済事業は他の町村とちがって広域・大規模であったため単独でおこなわれてきたが、十一年四月から近隣の事務組合と合併して、長野地区事務組合(一四市町村で構成)として共同化が実現した。