東海道新幹線(東京・大阪間)が、昭和三十九年(一九六四)十月一日に開通した。その六年後の四十五年に、全国新幹線鉄道整備法が公布された。これにより四十七年には北陸新幹線の基本計画が決定し、高崎・武生間のルートも公表された。四十八年には整備計画が決定し、日本鉄道建設公団(以下、鉄建公団)に建設指示が出された。おもな経過地は、長野市・中野市・飯山市・上越市・富山市・高岡市・金沢市・福井市を経て大阪市にいたる、総延長約六九〇キロメートルにおよぶものであった。県内通過延長は約一一七・五キロメートルで、停車駅は軽井沢・佐久・上田・長野・飯山の五駅で、長野は現駅併設の予定となった。これが開通すれば、長野・東京間は特急「あさま」三時間から約一時間二〇分に短縮され、産業開発・地域開発や観光・教育文化の促進にさまざまなメリットが考えられた。
昭和五十五年一月、鉄建公団は長沼地区でボーリング調査を実施し、長野市内八四地区で騒音・振動の測定調査をおこなった。二月には北陸新幹線建設促進長野市期成同盟会が、政府・国鉄・鉄建公団に建設促進の陳情をおこない、五月に市議会は、北陸新幹線対策特別委員会を設置した。
しかし、五十七年(一九八二)六月に東北新幹線が開業し、十一月には上越新幹線が開業予定というのに、九月の閣議で、北陸新幹線は財政上当分凍結すると決定された。着工のめどのたたない状況となった北陸新幹線沿線は、あせりと危機感をいだいた。「身銭(みぜに)切っても新幹線を」と、地元負担を受けいれ早期着工をもとめる決議が、昭和五十七年度中に長野・富山・福井・石川・新潟の各県議会で相ついでおこなわれた。これは前年に、全国新幹線鉄道整備法の一部改正によって、地元負担の道が開かれたためである。長野県では「信濃路に新幹線を」を合い言葉に、同年「長野県北陸新幹線沿線市町村連絡協議会」を発足させている。
五十八年には、長野・富山・金沢の三市に「北陸新幹線計画着工準備作業所」の設置が認められ、十月二十二日に合同開所式が富山市でおこなわれた。北陸新幹線建設促進同盟会(会長・中沖富山県知事)関係者四〇〇人が集まり、本格着工・早期完成をめざし、いっそう努力しあうことを決めた。長野県では同二十六日に沿線関係者三五〇人が集まり、北陸新幹線早期着工決起大会を開いた。
計画凍結の二年後の昭和五十九年十二月に、自民党五役会議が北陸新幹線六十年度着工を決めたことにより、ようやくゴーサインがでた。ただし、建設を公共事業方式・財源は建設国債・建設費の一〇パーセントを地元負担とするものであった。翌六十年十一月に、北陸新幹線早期着工実現県民総決起大会が、長野国際会館に九〇〇人の出席を得て開かれた。
六十一年には北陸新幹線建設促進長野市期成同盟会(会長・塚田市長)は総会を開き、①財源問題に早急に結論をだし本格着工をもとめる、②国の昭和六十二年度予算案に建設費を大幅計上し建設促進をはかる、の二点を関係機関に働きかけることを決議した。通過地区の市内各地でも北陸新幹線対策委員会づくりがおこなわれた。六十二年三月までには、市内通過一二地区(篠ノ井・川中島・第五地区[中御所など]・安茂里・芹田・第三地区[居町・緑町など]・三輪・古牧・吉田・古里・若槻・長沼[車両基地])で結成された。
北陸新幹線建設の一環としての長野駅改良工事のため、六十一年三月十六日に国鉄・鉄建公団・長野県・長野市の主催で、北陸新幹線長野駅周辺環境整備事業起工式が西口でおこなわれた。建設は鉄建公団が担当することとなった。駅舎改良工事着工によって、私有地の減歩案などの反対運動のため手つかずであった、東口の再開発が急浮上してきた。新幹線の新玄関としての土地区画整理と線から面への広がりをもつ開発、市の東部・南部の中長距離の交通拠点としての構想のもとで開発計画が練られた。昭和六十二年四月には国鉄が一一四年の歴史を閉じて分割民営化し、JR六社が発足した。
昭和六十三年(一九八八)四月に、北陸新幹線長野県沿線広域市町村連絡協議会が、沿線市町村住民六三万九八六八人の署名を添えて、北陸新幹線早期実現の陳情を関係方面におこなった。同年に運輸省は、軽井沢・長野間は信越線を広軌化する「ミニ新幹線」方式とすると発表した。小諸市・御代田町などでは、ミニ新幹線推進運動を展開した。しかし、長野市では、軽井沢までフル規格(標準軌新線)でくるので長野までフル規格でと、平成二年(一九九〇)四月、市民会館に二〇〇〇人を集めて「北陸新幹線軽井沢以北早期着工実現長野市民総決起大会」を開いた。同年には北陸新幹線早期着工を願う六七万七二六三人の署名を集め、署名簿を持参して運輸大臣や政府関係機関への陳情をおこなった。
平成二年(一九九〇)十二月に政府・与党申しあわせで、軽井沢・長野間はフル規格着工と決定した。同時に並行在来線をJRの経営から分離すること、横川・軽井沢間は開業時に廃止することを決めた。在来線維持には第三セクターの鉄道会社の設立が必要となり、だれが設立し、どこが経済負担をするかが問題となった。
三年六月、平成十年の冬季オリンピックは長野で開催することが決定し、新幹線の早期実現が不可欠のものとなった。同年八月に運輸大臣認可となり、九月十七日に北陸新幹線軽井沢・長野間の起工式がおこなわれた。九月から十月にかけて、市内通過一二地区で地元説明会が開かれた。
軽井沢・長野間ルート約八三キロメートルのうち市内分ルートは約二〇キロメートルで、そのうち橋や高架となる部分は一三・七キロメートルで全体の約七〇パーセントをしめ、残りは切りとりや盛り土となっている。さらに長沼地区赤沼地籍に、約一〇ヘクタールの車両基地が建設されることになった。開業にたどりつくまでは、地元説明会を繰りかえして了承を得て、用地測量・基本協議・地元設計協議・幅くい打ちをおこない、地権者会を設立して用地買収をすすめ、本体工事をおこなって完成とともに試運転をして安全を確かめるという長い道のりがある。
平成三年十一月二十日、初めてのくい打ち式が、篠ノ井駅構内でおこなわれた。塚田市長ら一〇人が「長野市躍進の杭」と書かれたくいを打ちこんだ。ルートの中心を示す中心くいは、二〇メートル間隔で打たれ、設計協議や用地買収の基本となるものである。
鉄建公団・県・長野市は、市内区間の地元設計協議にはいった。市新幹線高速道対策課は、①七月までに設計協議終了、順次幅くい設置、②平成五年(一九九三)十二月末までに用地買収を終え、埋蔵文化財発掘調査に着手、③八年三月末に本体工事終了などの日程を示した。市新幹線高速道対策課は、機構改革によって昭和四十八年に新幹線高速道対策室としてスタートし、五十六年に課となり、完成後の平成十年に新幹線高速道室となっている。大蔵・運輸の両省は、北陸新幹線高崎・長野間の工事を、長野で開催される冬季オリンピックに間に合わせるための例外措置として、事業費を財政投融資資金をふくむ借入金を投入することで合意した。
さまざまな問題を解決しつつ用地買収・建設工事がすすめられた。平成六年には長野新駅舎が着工された。
平成八年五月一日に篠ノ井・軽井沢間を経営する第三セクター会社「しなの鉄道」が発足し、社長には前県出納長の山極達郎が就任した。県が七五パーセントを出資し、沿線一〇市町村・金融機関・法人など二八団体が資本金二三億円を共同出資した。七月には仏閣型長野駅舎の解体がはじまった。
同年十二月、政府・与党は、整備新幹線の取りあつかいについて、新規着工区間三線の中で、北陸新幹線の長野・上越間はフル規格として合意した。そして、十年三月に長野・上越間起工式が、上越市脇野田駅構内でおこなわれた。さらに、十二年十二月に、上越・糸魚川間、糸魚川・魚津間、魚津・富山間がフル規格でと、政府・与党の申しあわせがなされた。同年九月に中野市で、十月には飯山市で中心くい打ち式が実施された。
平成九年四月にJR東日本が、北陸新幹線の十月一日開業を発表し、列車の愛称は「あさま」とした。しかし、JR東日本は北陸新幹線開業を前にして、名称に苦慮した。名前と行き先の一致する東北新幹線・上越新幹線とは違い、北陸新幹線は長野が終点で北陸へは行かない。東京駅では三新幹線が乗りいれるので、乗客が混乱するおそれがある。当初は東京駅などの駅構内で、案内用として「長野行新幹線」としたが、のちに「長野新幹線」を正式に用いることになった。五月七日には試験車両ドクターイエローが長野駅にはいり、十七日からはE2系新型車両による試運転が開始され、九月には「あさま」試乗会がおこなわれた。
九年十月一日、北陸新幹線が開業した。長野駅では午前五時半に、藤井運輸大臣、松田JR東日本社長、吉村県知事、塚田市長ら関係者百三十余人が出席して、新幹線出発式を開いた。六時二分、「あさま」東京行は定刻どおり発車した。長野・東京間は、時速二六〇キロメートルのスピードにより、最短一時間一九分で結ばれ、一日二四往復走ることになった。県内の新幹線駅は、長野・上田・佐久平・軽井沢の四駅で、佐久平駅は新設駅であった。
JRから経営分離した「しなの鉄道」も十月一日に篠ノ井・軽井沢間で開業し、出発式を六時四〇分に篠ノ井駅でおこなった。沿線各駅でも出発式をおこない、鉄路が廃止となった横川・軽井沢間の代替バスも、「ジェイアールバス関東」による運行が開始された。前日の九月三十日には、軽井沢駅・横川駅には多くの地元の人や鉄道ファンが集まり、一〇四年間の鉄道の歩みに終止符をうつ最終列車との別れを惜しんだ。「しなの鉄道」の開業時にはJR東日本との協議で、激変緩和措置として一定額を割りびくことにしたが、短距離内では従来の運賃より割高感が残った。乗客の多い長野・篠ノ井間は従来のJR東日本の経営であったが、篠ノ井・軽井沢間を経営することになったしなの鉄道は、開業以来赤字がつづき、平成十三年(二〇〇一)経営改革案を最大株主の県知事に提案して山極社長は辞任した。同年三月に本社を長野市から上田市に移転し、HIS開発管理室長の杉野正を社長に、県商工会議所連合会会長の仁科恵敏を会長(非常勤)に招き、民間感覚を生かした経営立てなおしを託した。杉野社長は、さまざまな手だてをこうじて、経営立てなおしをはかっている。
道路交通に関しては、昭和四十年(一九六五)に「長野と松本を三〇分で結ぶ」という県民のおおきな願いを実現しようと、県は長野・松本間弾丸道路建設の調査を始めた。当時、長野・松本間は国道一九号で結ばれていたが、長野市中御所と松本市落合橋の間七二・九キロメートルは道幅五・五~七・五メートルで、犀川に沿って曲がりくねっているので、順調でも一時間半から二時間かかっていた。鉄道篠ノ井線でも、長野・松本間は急行列車で一時間一〇分、普通列車で二時間かかっていた。長野・松本間弾丸道路ができて、中央自動車道と結べば、長野・飯田間も二時間で結ばれることになる。当時、飯田・下伊那の人びとは、県庁への出張や長野市で開かれる会議に出席する場合、一泊するか会議途中で帰らなければならないことがあった。明治以来の分県論や移庁論が事あるごとに吹きだしてきたのは、この交通事情の悪さも一因であった。
昭和四十一年(一九六六)に国土開発幹線自動車道建設法が制定され、四十五年から四十六年にかけて岡谷市と松本市間(約二七キロメートル)、松本市と長野市間(約六三キロメートル)の自動車道の基本計画が決められ、四十八年に岡谷市と長野市間の整備計画が決定した。昭和五十年にはいり、南北信一体化の夢をかけての早期実現を働きかけた結果、建設計画が具体化してきた。日本道路公団長野調査事務所が、五十四年に中央自動車道長野線通過予定地の地表調査をおこなった。この区間のおもな経過地は、岡谷市・塩尻市・松本市・更埴市・長野市である。このルートはJR篠ノ井線に沿っており、更埴市の稲荷山トンネルを抜けて長野市に入る。篠ノ井塩崎地区で篠ノ井線を高架橋でまたぎ、再び更埴市に入って関越自動車道上越線(上信越自動車道)と合流(更埴ジャンクション)し、松代町清野・東寺尾・大室、若穂町を経て須坂市に至るようになっている。市内通過距離は一八・六キロメートルであった。これは、南北信の交流を活発にし、全県的な産業・経済開発の大動脈として、さらに県民生活への貢献の大きい自動車道として期待された道路建設のスタートであった。中部横断道の各自動車道の位置は図9のようである。
中央自動車道長野線の調査を知って、松代町では四十九年三月に、区長・農協・商工関係者によって、松代町高速自動車道対策研究委員会を結成した。八月には、優良農地がつぶされるとして、松代農協高速自動車道通過絶対反対対策委員会が結成されたが、翌五十年六月には商工関係者を中心として、「中央高速道長野線長野松代インターチェンジ誘致期成同盟会」を結成して、インター誘致の活動を開始した。高速自動車道が通っても、インターがなければ駅のない鉄道と同じで、城下町松代はいっそう寂れてしまうと危機感をつのらせたのである。十二月には長野市議会が、松代インターチェンジ誘致を採択した。このころはまだ、長野以北の通過ルートでは上越まわりとアルプスまわりのいずれにするか、結論がでていなかった。
篠ノ井塩崎地区の一部からは、道路が高架になれば振動・騒音・排気ガス・日照・水質汚濁などに問題が起きると、高速自動車道通過反対の声があがった。篠ノ井・松代・若穂三地区の農協が中心となって組織した「高速自動車道対策委員会」は農業振興の立場で協議し、優良農地をつぶさない・集落を分断しない・公害を出さないの三原則を確認して、関係方面に要望を伝えた。このころは、賛成・反対・条件闘争など、さまざまな意見がうずまいていた。同年八月には戸倉・更埴・篠ノ井地区八ヵ所で、地滑り対策を中心としたボーリング調査がおこなわれた。
中央自動車道の県内全通が五十六年(一九八一)三月に実現し、県内は南から本格的な高速自動車交通時代を迎え、いっそう長野線の早期開通が待たれることになった。長野以北ルートのアルプスまわりは地質上で問題が多いとされ、上越まわりに決定した。市議会の高速道対策特別委員会は、篠ノ井・松代・若穂三農協の正副組合長らと意見交換をしたり、日本道路公団関係者と懇談したり、市民との間に立って事前協議をおこなった。九月には松代・若穂地区の大勢は、自動車道受けいれの方向となった。松代地区では、地元の関係団体が集まって松代地域開発協議会(会長矢沢頼忠)を結成し、今後の松代の街づくりの方向をさぐっていくことになった。
昭和五十七年一月には、須坂市と中野市間の整備計画が決定した。十月、篠ノ井地区が柳原市長に一〇〇項目の要望をつけ、条件つきで自動車道受けいれを大筋で合意した。十一月には日本道路公団長野工事事務所が、五〇メートル幅ルートで、長野市内を通過するさい二〇数棟の建物がはいるが、さまざまな社会的・文化的資産、環境保全など総合的に考慮したと発表した。つづいて松代(八・二キロメートル)、若穂(六・一キロメートル)、塩崎(四・三キロメートル)で説明会を開いた。三ヵ所とも、意見・要望の集中したのは、騒音・振動・日照・生活道路の寸断などの環境面、農業用水の渇水対策・用水路付けかえ・沿線のほ場整備などの農業面であった。このころには、岡谷市では工事施工、塩尻市では道路幅のくい打ち、松本市・豊科町では設計協議、明科町・麻績村では中心くい打ちが始まっていた。
更埴ジャンクションと須坂長野東インター間の工事実施計画が、五十八年三月に認可された。同年八月、長野市須坂市合同くい打ち式が、道路公団関係者・吉村知事・柳原市長らの出席を得て、松代町の長野インター予定地でおこなわれた。この後、予定地に二〇メートル間隔で、中心くい打ちがすすめられていった。六十年五月に、須坂市と中野市間の工事施行命令がだされた。
昭和六十一年三月には岡谷インターが開通し、長野に向けて豊科インターまでの工事が始まった。同月には塩崎地区で設計協議がまとまり、確認調印式がおこなわれ、用地買収が始められることになった。この年には幅くい打ちが終了した。幅くいにはそれぞれ名前がつけられ、塩崎地区は「北信黎明の杭」、松代地区は「善光寺平飛躍の杭」、若穂地区は「北信躍動の杭」となっていた。なお、須坂長野東インターの幅くいは、「北信開道礎の杭」と名づけられた。
道路公団では豊科以北の長野道予定地で、用地買収に関係のないトンネルエ事から着工した。六十二年八月に着工した稲荷山トンネル(五九二メートル)は、平成二年(一九九〇)に貫通し、三年には長谷トンネル(七二九メートル)・大室第二トンネル(七八〇メートル)などが貫通し、塩崎高架橋が架けられ、屋代と篠ノ井間の橋では最長の千曲川橋(五二六メートル)も完成して、工事は順調にすすめられた。平成二年には、中郷村と上越市間の施行命令が建設省からだされた。同年から、松代松原遺跡・若穂川田条里遺跡等の緊急発掘調査が始まった。
同時に長野インターにつながるアクセス道路の松代大橋の建設・長野真田線の改良工事がすすめられ、松代大橋(長さ五二六メートル・幅一三メートル)が平成四年八月に完成し、長野真田線も一八号バイパスまで四車線に拡幅された。須坂長野東インターと長野市内を結ぶ県道長野須坂インター線は、東通り交差点から四車線に拡幅工事がすすめられた。五年二月に丹波島橋の四車線化が完成し、三月に開通式がおこなわれた。県内バス会社五社は、自動車道の完成を前にして、高速バスの新設・増便を申請した。
平成五年(一九九三)三月十四日、開通前のイベントとして、①歩こうハイウェイウォーク&写真撮影会(長野ICと松代PA間)、②ハイウェイ健康マラソン(長野ICと須坂長野東IC間)、③ハイウェイサイクリング(長野ICと須坂長野東IC間)を開催した。好天に恵まれ、開業すれば歩くことも走ることも、自転車など乗り入れることもできない快適な道を、たくさんの人が家族や仲間で参加して楽しんだ。
同年三月二十五日に長野自動車道・上信越自動車道の開通式が、松代パーキングエリア沿いの上り本線沿い上で、関係者によって盛大におこなわれ、午後三時から共用開始となった。開通区間は、長野自動車道の豊科インターから更埴ジャンクションまでの四二・七キロメートルと、上信越自動車道の更埴ジャンクションから須坂長野東インターまでの五八・六キロメートルである。このうち長野市内は、篠ノ井・松代・若穂地区一八・六キロメートルで、ここに長年待望の高速自動車道が長野まで完成した。
これによって、長野インターから松本インターまでは約四〇分、飯田インターまでは約二時間で行くことができるようになった。この後、須坂長野東インターと信州中野インター間(一一・五キロメートル)が平成七年十一月に、信州中野インターと中郷インター間(三八・二キロメートル)が平成九年十月に開通して、高速自動車道県内全線開通となった。中郷インターと上越インター間(二〇・四キロメートル)が平成十一年十月に完成して共用開始となり、須坂長野東インターから上越インターまで、約一時間で結ばれることになった。対向車線部分も、現在四車線化の工事がすすめられている。