長野駅東口整備と中央通りの改修

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昭和四十七年(一九七二)九月十一日付の『信毎』紙上に、駅東口区画整理事業の概要が報道されると七瀬町民の反対運動がおきた。同月十八日には区民総会が開かれ、反対の請願書が同月二十一日の市議会に一二〇〇人の署名をつけて提出され、その月末には反対期成同盟会が結成されて反対運動がはじまった。反対の趣旨は、「市側の計画は大長野市の発展のためと交通整備拡張を意図したもので、住民からの要求からではない。所有地の二八パーセントが減らされ、その減少部分は無償である」という点にあった。

 昭和四十八年十一月夏目市長から受けついだ柳原市長は、「七瀬町の区画整理はおこなわない。ただし、市道七瀬中御所線は国鉄用地を取得して通し、民有地には迷惑をかけない」と約束した。四十九年九月反対期成同盟会が、市議会に「駅東口周辺土地区画整理事業反対に関する請願書」を提出し採択された。同盟会はその後、七瀬中御所線の施行や北陸新幹線の長野駅併設にともなう環境問題に対処できるように「七瀬町環境を守る会」と改名し存続した(『七瀬町誌』)。

 昭和六十年(一九八五)に塚田市長が当選すると、市長はその年の十二月市議会で、東口地域の現況から再開発はぜひとも必要との意思表示をした。平成二年(一九九〇)には駅東口開発の基本構想ができ、地元への説明会が実施された。

 平成三年六月にイギリスで開かれたIOC総会で、第一八回オリンピック冬季競技大会(平成十年)の長野市開催が決定されると、市は、四年三月に長野駅周辺第二(東口)土地区画整理事業基本計画を作成し、建設省の承認をえた。

 いっぽう、七瀬、北中、栗田、中御所などの区画整理地区関係者は、同年二月に長野駅東口地域街づくり対策連絡協議会をつくり、五月には長野駅東口区画整理反対連絡会を設立した。また、市議会は同年九月東口土地区画整理事業促進に関する決議をおこなった。

 平成四年十一月県都市計画地方審議会は、駅東口土地区画整理事業の都市計画施行区域などを承認・決定し、県はこの都市計画を決定した。そして、五年四月に事業計画案が作成された。同年七月県都市計画審議会は駅東口開発について提出された開発反対意見書を審議し、口頭陳述審議と現場検証を実施し、同年十二月、意見書の不採択を決定した。そして、さきの五年四月に作成された事業計画を、同年八月県知事が認可し、さらに、九月に市が決定、公告した(『長野駅周辺第二土地区画整理事業の経緯』長野市駅周辺整備局)。

 事業は、平成五年末に山王栗田線のJR線ガードから工事が始まり、平成七年から七瀬中御所線、長野駅東口線、栗田屋島線など幹線道路の工事がつづき、東口駅周辺は拡幅舗装がされた。ガード南側のホテルメルパルクが平成九年九月に三ヵ年をかけて竣工した。長野駅東口線の電線等は地下埋設とし、地上に電柱のない道路となり、駅南側にあった変電所はメルパルク南側に地下埋設の変電所になった。


写真65 整備工事のすすむ長野駅東口

 仏閣型で親しまれた長野駅舎は、新たに新幹線が入り二階部分が駅舎になるため、改築されることになった。新駅舎はホームが一階、駅と東西自由通路が二階部分になった。市は、駅東西自由通路部分に長さ一二六メートル、幅六~一五メートルをJRの計画より広く確保し、西口にエレベーター一基、エスカレーター二基、中央エレベーター一基、東口にエスカレーター四基とエレベーター一基、七瀬中御所線東側にエレベーター一基を計画した。また、東口駅前広場(二階部分)からペデストリアンデッキによる横断路、約二〇〇台収容の東口地下駐車場と東口駅前広場も完成した。駅舎改築と駅周辺整備は、平成五年から工事をはじめ、九年に完成した。平成十一年から十二年に駅東口線の七瀬中御所線の交差点に、ペデストリアンデッキとエレベーター二基をとりつけた。これらの総工費は約七六億円であった(「長野駅東口周辺施設」長野市駅周辺整備局)。東口駅前のホテルなどビル群は、冬季オリンピックに合わせて急ピッチで建設がすすめられた。


写真66 新旧の長野駅舎が併存していた平成8年6月

 中央通りの舗道には、第二次世界大戦後二十年代後半に、日よけや雪よけのためのよしずやビニロンを使い、骨組みは木製によるアーケードなどが作られたが、昭和四十年代になるとアーケードも金属製となり、歩道の舗装もカラーブロックとなった。

 昭和五十三年(一九七八)九月、五十数年ぶりに中央通りの大改修工事が竣工した。昭和通り以北の完成に引きつづき、その後以南も改修された。工事は一五〇センチメートル以上も掘りさげて基礎石まで敷きかえる、大正時代以来の大工事であった。また、その後アーケードの老朽化がすすみ、商店街事務所とは別にアーケード建設事務所を開き、五十七年に建てかえられた(『長野銀座・いまむかし』)。

 昭和六十三年には冬季オリンピックの国内候補地に決定したこともあって、中央通りの電線地中化(キャブ)構想がきまった。工事は、末広町から昭和通り交差点までを平成三年(一九九一)三月までに完成し、それより北の大門町までを八年八月までにおこなった。舗道を拡幅し、電気、通信、有線放送などすべての配線類を地中化し、舗道部分に無散水融雪施設を敷設した。そして新たな街づくりとして、地中化工事と共にアーケードの撤去が始まり、その完成とともに姿を消した。中央通りは、電柱やアーケードのないすっきりとしたゆとりのある街並みと並木のある緑のある通りにかわった。


写真67 平成8年7月整備の終わった大門町

 中央通り沿いの後町には、長野の街に似合う店舗兼マンションのビル、西口駅前には店舗・飲食店が入った高層ビルが都市再開発事業として完成し、アーケードのない中央通りは白壁が目だつ街にかわった。冬季オリンピックでは長野市の表玄関口、善光寺参道への道、オリンピックの表彰式をおこなうセントラルスクウェアへの道としてにぎわい、東口駅前は、オリンピック会場と結ぶシャトルバスや団体バスの発着場、イベント会場や臨時の飲食店街でにぎわった。

 駅東口土地区画整理事業の反対派住民は、平成八年(一九九六)に計画の無効確認を長野地裁に提訴、東京高裁に控訴したが、いずれも却下され、最高裁への上告でも平成十年五月棄却の判決がくだった。この事業は平成十三年四月現在、仮換地指定面積は計画の二〇・三二パーセント(約七平方キロメートル)、都市計画道路のうち、整備済み道路は計画の二六・二パーセント(約一キロメートル)、区画道路のうち、整備済み道路は計画の一四・三パーセント(一四三〇メートル)であった。区画整理事業は一つの区画ごとに計画的に動かすので、その区画所有者全員の賛同が得られないとすすめられにくい。駅西口土地区画整理地域の約六倍の広さと、個人住宅の多い東口地区では利害が一致しなかった。反対連絡会は、その後もこの都市計画の白紙撤回をもとめていたが、平成十三年八月、市と反対連絡会との話しあいがもたれてから、断続的に協議の場を設けるなかで歩みよりがでてきた。反対連絡会では、新幹線の開通や冬季オリンピックを機に整備がある程度すすんだこと、都市計画が延長されることなどをふまえ、区画整理などの新しい街づくりを認める方針に転換した。


写真68 整備された長野駅東口広場

 平成十四年一月には、反対連絡会は市長に区画整理事業の必要性を認めたうえで、①駅南幹線二五メートル道路を見なおして二車線として残りは舗道として地域の分断をさけ、②財政規模などの面から不必要な区域の除外、③年金生活者など住民のあらゆる要求に応じるなどの要望書を提出した。長野市ではあらゆる人が新しい街づくりについて話しあえる場をつくり、そこでの総意や要望を尊重して事業をすすめたいとして反対連絡会とも話しあっていく方針を示し、歩みよりがみられた。平成十四年二月、駅東口土地区画整理事業は一四年間延長し、平成二十八年(二〇一六)終了予定の変更が決定された(『長野市民新聞』二〇〇二年二月十五日)。

 平成十四年末、反対連絡会は会の名称を「東口安心して住めるまちづくりを進める連絡会」に変更を決定し、十五年一月、新会名で幹線道路計画見なおしなどで協議を申しいれる要望書を市に提出した。

 このようななか、平成四年発足の東口土地区画整理事業の推進派でつくる東口地域再開発事業促進同盟会は、反対運動が転機を迎えるなか、同盟会会員も対象地区の区長らでつくる「駅東口地域街づくり対策連絡協議会」に入会し、賛否をこえて街づくりをすすめるとして十五年三月末に解散した。