少子化がすすむなかで、郊外に新たな住居をもとめる動きは、昭和から平成年代に入ってからもつづいていた。昭和六十一年(一九八六)度の市内には表15にみられるような、学級数が三〇をこえる過大規模の小・中学校が一〇校存在していた。過大規模校では教職員の努力にもかかわらず、学力の定着や生徒指導面での不安が指摘されていた。またいっぽう、過疎化・ドーナツ化による過小規模校では、児童生徒一人ひとりに指導が行きとどく良さはあるものの、人間関係が固定化して切磋琢磨(せっさたくま)ができにくくなり、教育効果が上がりにくいという声が聞かれた。
市教育委員会(以下、市教委)では、六十一年六月、過大規模校・過小規模校の改善をはかるため「長野市立小・中学校通学区域等改善研究委員会」を設置し、六十三年三月に最終提言をうけた。その要点は、①マンモス校(過大規模校)解消のため、中学校一校・小学校二校を六十七年度までに新設する、②人口のドーナツ化現象がおきている、中心市街地の小学校六校を統廃合する、であった。
解消の第一歩として、三〇学級をこえている三陽・桜ヶ岡・裾花の三中学校の改善をはかるため、大字川合新田に犀陵中学校が新設され、平成三年(一九九一)四月、九一四人、二六学級で出発した。つづいて四年四月には六五六人、二〇学級の緑ヶ丘小学校が高田に、芹田・南部・古牧の三小学校の一部児童を受けいれて開校した。さらに、五年四月には、青木島・下氷鉋・川中島の三小学校からの一部児童を受けいれて、三本柳小学校が開校した。三本柳小の設置場所は、関係者の協議により決定された丹波島一丁目(現三本柳東二-一)であった。計画では六五〇人、一八学級であったが、開校時には六九三人、二一学級にふえていた。こうした提言の実行中にも、生徒がふえつづけていた犀南地区の中学校の過大化を改善するため、七年四月には広徳中学校が稲里町田牧に開校した。通学区域は、更北・川中島・篠ノ井東の各中学校区の調整によって決められた。
こうした改善策により、これまでの過大規模校ではさまざまな改善がみられた。たとえば、青木島小学校では、各学年のプレイルームなどが設置されたり、午前・午後の二部制たった音楽会は、全学級がそろっておこなわれるようになった。また、卒業式も、三年生以上の児童の参加から、全学年参加で門出を祝うものになった。児童会も、四年生は別組織にし、五・六年生ですすめていたものが、本来の四年生以上全員による活動にもどった。これら改善の対象となった学校の多くはその後、児童数・学級数がともに小幅の変化か、多少減少の状況がつづいて標準規模校にむかっている。しかし、古牧小学校では、児童数は徐々に減ってはいるが二五学級をこえており、緑ヶ丘小学校は一時減少の後、十年ころから増加に転じ、三本柳小学校は増加の一途をたどって大規模校になっている。いずれも周辺の住宅地の開発がすすんだことによるものであった。このように学校規模の大小の改善がすすみ、一学級当たりの人数も少なくなってきているが、中学校の標準規模校や大規模校では、一学級当たりの生徒数は三七人前後で推移している。
過小規模校や分校については、教育効果や子どもの社会性の育成を念頭に統廃合がはかられ、信里小学校村山分校(篠ノ井山布施)は七年四月に、信田小学校高野分校(信更町高野)は十二年四月に、それぞれ本校に統合された。また、小田切小学校は九年三月、小田切中学校(ともに大字山田中)は十年三月に廃校となり、翌年度から児童生徒たちは市教委の配慮を得て、バスやタクシーで近隣の加茂・松ヶ丘の二小学校、西部・裾花の二中学校に通うことになった。統廃合された学校・分校の地区住民からは、子どもの数が少ないのでやむを得ないとしながらも、地区から子どもたちの声がふだんはほとんど聞かれなくなったと、地域のよりどころがなくなった寂しさが伝えられている。小田切小・中学校の建物は改修されて、「かつらヶ丘小田切」として地域のふれあい交流や、「青少年錬成センター分館」として子どもたちの活動の場に、利用されている。
平成七年一月市教委は、「中心市街地のまちづくりと小学校の適正配置研究委員会」(以下、委員会)を諮問機関として設置し、児童数の減少がつづく市中心部の小学校の将来像を検討しはじめた。委員会は関係区長一二人、PTA関係六人など三二人で構成されていた。市教委は九年二月の第一〇回会合に、市街地の城山・後町・鍋屋田・加茂・山王・城東の六小学校の通学区再編について素案を提示し、委員会での論議をもとめた。この素案にはそれぞれの学校の通学区域まで設定され、つぎのような二案になっていた。
A案 ①後町・鍋屋田・山王の三小学校を廃止して、後町小学校の現在地に一校を新設
②城山・加茂の両小学校を廃正して、城山小学校の現在地に一校を新設
③城東小学校の通学区を拡大して一校を新設
④南部・古牧・三輪・安茂里の四小学校通学区の手なおし
B案は、A案の②③だけがつぎのようになり、①④は同じであった。
②城山・加茂・城東の三小学校を廃止して、城山小学校の現在地に一校を新設
委員会は審議のなかで、後町・鍋屋田・山王の三小学校を統合して設ける新小学校の建設場所について比較検討をすすめた。十二年八月には、つぎのようなことを柱とする中間提言を、市教委に提出した。
①山王小学校跡地に新設校を設置する。
②後町・鍋屋田両小学校跡地は公共施設にする、などであった。
地元の小学校が廃止されることを知った地域住民やPTAのなかからは、審議の経過が明らかにされてこなかった委員会審議と、まちの活性化のために廃校するという結論への反発もあって、提言の凍結や再検討をもとめる意見や不満の声がだされた。またいっぽうでは、跡地を防災公園にして緑地をふやす、店舗をそなえた集合住宅にするなどの提案もあった。
平成十三年十月、塚田市長のあとをうけた鷲澤市長が、十四年六月に、提言当時との状況の変化を指摘した。これにより、市教委もこれまでの方針を見なおし、委員会では新しいデータをもとに、さらに、検討をすすめている。
昭和小学校(川中島町今井)では、長野冬季オリンピックの選手村あとを中心とする約一〇〇〇戸の今井ニュータウンへの入居などにより、児童数がふえつづけ教室が足りない状況となった。当初は特別教室の転用で当座をしのいだもののやがて足りなくなり、鉄筋三階建校舎の増築をし、十三年一月から使用開始となった。その後も宅地開発がつづいて児童数はふえつづけ、十三年度には一〇〇〇人をこすと見こまれるようになったため、市教委では過大規模解消にのりだした。十二年三月、地元区長や保護者代表ら二三人からなる「川中島地区小学校通学区検討協議会」(以下、協議会)を発足させ論議を始めた。市教委では、昭和小学校周辺の川中島・下氷鉋・篠ノ井東の三小学校へ、昭和小学校の通学区の一部を編入する再編案により、住民の理解を得て解決をはかろうとした。しかし保護者からは、新設校をもとめる声もあって同意は得られなかった。
十二年十一月川中島町で開かれた行政懇談会の席上、塚田市長が「隣接の共和小学校を今井寄りに移転・新築したうえで、通学区の再編をおこなう」と、発言してから事態がかわった。共和地区では、降って湧いた話のようだといって反発も強く、十二月下旬に開かれた説明会でも、意見の集約はできなかった。市教委では、つぎのような提案をした。
①子どもの切磋琢磨・協調性の育成の点から、適正規模(一二~一八学級)が望ましいが、共和小学校は十八年(二〇〇六)には児童数が一二〇人にまで減少する。
②昭和・共和の両小学校の通学区再編をすすめるため、共和地区の住民代表者で会を発足してほしい。
これにたいして、共和地区の住民からは、①現在の共和小学校に校舎を増改築して、川中島地区の子どもを受けいれる、②移転・新築に四〇~五〇億円かかる分で、今井ニュータウン南側に新しい学校をつくる、③共和小学校児童数の適正規模化は、昭和小学校の過大規模校解決のために後でつけた理由である、などの意見がだされ、歩みよりはみられなかった。
十三年五月には、区長会・PTA・育成会・民生児童委員など各種団体の代表五三人からなる「共和小学校対策検討委員会」(以下、対策委員会)を設置した。各種団体や住民と市教委や市長との懇談会・集会などをとおして、学校名は共和小学校、移転先は共和地籍であることが確認された。これまでの話しあいをもとに、共和地区では住民のアンケー卜調査を実施した。結果は回答を寄せた八九六世帯の六四パーセントの賛成を得て、十三年十一月、市教委提案の共和小学校移転・新築案を、条件つきで受けいれることになった。共和地区が提示した受けいれ条件は、
①建設場所は現在の共和小学校寄りにする。
②通学路の安全を確保する。
③共和小学校の跡地利用は、住民の意向を尊重する、などであった。
こうした動きをうけ、川中島地区でも協議会・昭和小学校親の会・市教委と住民の対話集会、今井原区評議委員会などで論議が深められ、根強い地元への新設希望はあるものの、共和地区住民の受けいれ同意をうけ、学区再編にのぞむ方向となった。話しあいのなかで、今井区と今井原区を共和小学校へ編入する方向にすすんでいる。市教委では、両地区の意向を聞きながら建設場所・通学区の設定や建設計画をすすめている。