善光寺は、宝永(ほうえい)四年(一七〇七)の落成以後、昭和四年(一九二九)の修理までに、文献によると屋根修理を四回おこなっている。昭和四年までは栩葺(とちぶ)きで、それ以後は檜皮(ひわだ)葺きに変更している。その後五〇年が経過し、いたみがひどく、全面的に屋根の葺きかえに迫られていた。昭和五十三年(一九七八)に善光寺は文化庁と長野県に屋根の葺きかえを陳情した。翌年には本堂で雨漏(あまも)りがあり応急処置でしのいだ。昭和五十九年に設計監理を依頼した文化財建造物保存技術協会の調査の結果をえて、屋根の葺きかえおよび部分修理をすることにし、工事期間は約六年間、事業費約一四億円で実施することになった。
工事は昭和六十年の開帳後から始まった。裳(も)こしのある善光寺の屋根は全国でも最大(約三六〇〇平方メートル)で、檜皮は国内年間生産量約八〇〇駄の二年分以上も必要とするため、工事は前半(南側)と後半(北側)の二期に分けて実施した。本堂がすっぽりかぶる高さ三二メートル、間口・奥行とも四八メートルの仮設の素屋根は、前半で組みたてた資材を後半にも使用した。屋根葺きかえとともに内陣(ないじん)・内々陣の柱、高欄(こうらん)や屋根外まわり破風板(はふいた)などの漆(うるし)の塗りかえをし、天井板の彩色補修や瑠璃壇(るりだん)めぐりの柱や来迎二五菩薩などの金箔押し、飾り金具の補修・補充をした。また、床下の土間たたきの補修、小屋梁(はり)にきれつが見つかったことによる鉄骨補強をし、外陣(げじん)と回廊の床板など補修・取りかえをおこなった。防災施設は耐用年数をこえ老朽化したため、自動火災報知機、屋根から放水するドレンチャー設備や避雷設備などが全面改修となった。また、白蟻防除・防腐処理・鳩よけの網の設置工事をした。
昭和六十一年六月第一期工事が終わり、本堂南半分をすっぽり覆っていた素屋根がはずされた。『信毎』は、「寺の顔、本堂正面の茶褐色で重厚な屋根が姿を現した。素屋根が取りのぞかれ、三門をくぐって初めて目に映る檜皮の美しさに、思わず足を止める観光客もめだっている」と報じた。全部の工事が終わった平成元年(一九八九)十一月二日、昭和大修理落慶法要が本堂正面でおこなわれ、境内は県内外の信者六〇〇〇人でにぎわった。
この昭和大修理の費用約一四億円、うち六五パーセントは国庫、県と市がそれぞれ一五パーセントを補助し、善光寺が五パーセントを負担した。また、大修理の寄付金は約四億九〇〇〇万円となり、善光寺の負担金、周辺の石塔などの補修、参道石畳の敷石据えなおし、建物内部のほこり、汚れ落としなど補助金でできないところに支出された。昭和二十八年(一九五三)国宝に指定されて以来、初めての善光寺の昭和大修理は、寄付金にたよっておこなった大正の大修理とは異なり、おもに補助金でまかなわれた。また、手に入りにくい良質の檜皮と屋根葺師の確保が大きな課題であったが、順調に間にあったことは画期的なことであった。
善光寺三門は、昭和四十年松代地震発生以後、柱を木と針金で巻き、鉄線を斜めに張って補強をしてきたが、平成十三年(二〇〇一)の調査の結果、建物がやや西に傾き、いたみもひどくなって、十四年八月に半解体修理をすることにきまった。屋根の葺きかえと二階以上を解体し、補強をはずすために、一階の小屋組と板壁部分を補強し、そのうえ鉄骨を入れて構造補強をすることになった。この事業費九億四〇〇〇万円は国が五〇パーセント、県・市が一五パーセントずつの補助金、善光寺が二〇パーセント負担である。また、善光寺では、この機会に募金三億三〇〇〇万円によって鐘楼(しょうろう)の屋根葺きかえや周辺整備を予定している。工期は平成十四年から十九年までの六年間の予定である。
いっぽう、松代城は明治維新の廃城後、城の改変がすすみ、本丸以外、城としての景観がわからなくなっていた。地域内には農地や宅地があり、野球場・市民プールなどのある地区公園として利用されていた。昭和五十六年(一九八一)四月に国の史跡「松代城跡附(つけたり)新御殿跡」(六・三ヘクタール)として指定された。長野市は城郭全域の保護を目ざして整備計画をたてた。五十七年から五十九年にかけて、地域内の私有地の公有地化をはかり、住宅の移転をし、野球場や市民プールなどは松代町西条に移転し、平成六年に青垣公園として完成させた。五十七年に「史跡整備基本計画策定専門会議」を発足させ、五十九年に基本計画をつくった。
整備事業は、新御殿跡(真田邸)のいたみのはげしかった表門南北両長屋、一番・四番・五番土蔵の保存修理を昭和六十年から五年間かけて実施した。また、城跡の発掘調査を平成元年(一九八九)から六年までに、本丸石垣、太鼓門、北不明門(きたあかずのもん)、本丸隅櫓(すみやぐら)、本丸御殿、二の丸、内堀、外堀などをおこない、建物の絵図面などの資料調査を実施した。松代城を描いた絵図は、享保(きょうほう)二年(一七一七)火災以後のものが比較的多く残っているものの、それ以前の絵図はほとんど現存しないことや当初の城のようすがはっきりしないことから、一七一七年以降に再建された松代城を復元する整備基本計画が平成六年につくられた。
城の復元工事は、平成七年から十一年にかけて、本丸石垣などの修復復元、二の丸土塁(どるい)の再現、内堀および一部外堀の再現をし、平成十一年から四年開かけて太鼓門と太鼓門前橋、平成十三年から三年間をかけて北不明門などを復元完成させた。松代城は土塁が多く、内堀も二の丸側は、橋下部分以外石を使わず土で固められていた。松代城は中世のようすを残し、海津城時代の名残を色濃く残す城であった。戌亥櫓(いぬいやぐら)は絵図面もなく、掘削でも土台跡などがはっきりしないため、復元できなかった。
総事業費は約二六億円で、そのうち、太鼓門の復元工事は約二億五〇〇〇万円、北不明門の復元工事は約一億二〇〇〇万円であったが、総事業費の財源は国の補助金が約五億五〇〇〇万円、県が約一億四〇〇〇万円、市が約一九億円であった。
いっぽう、松代町民から、ボランティアによる町おこしの動きが活発化してきた。平成十三年には「夢空間松代のまちと心を育てる会」を立ちあげた。町民みずから松代町の文化を見なおす住民参加の街づくりをはかり、松代まるごと博物館という構想によってお庭拝見などをすすめた。十四年六月にはNPO法人(特定民間非営利活動法人)の認可をえて組織(会員約一五〇人)を確立した。平成十六年は松代城の復元完成にあわせ「松代イヤー」(仮称)として、松代町おこしの活性化をはかることにしている。