松代大本営地下壕群の工事は、太平洋戦争敗戦の翌日、昭和二十年(一九四五)八月十六日に中止となった。強制立ちのき命令を受けた一二四世帯の人々は、八月下旬から十月下旬にかけてわが家の跡地へと順次もどったが、秋の収穫がないため食糧不足に悩んだ。
同年十月二十六日、西条村、豊栄村、清野村にわたるいくつかの地下壕内外のようすについて、『信毎』は「謎は解けた松代の横穴」との大見だしと、「大本営や各省など、洞穴に日本の首府、さながら迷宮豪華な地下殿」「どこも檜づくりで唐紙は銀の菊模様、藁屋根の下に近代施設」「百余戸に立ち退き命令、総工事費は六千万円」「動員した七十五万人」「伝来の郷家を立ちのいて、村民は語る、帰っても耕地がない」などの小見だしで、それぞれの内容をくわしく報じた。
その後、各地下壕は放置されたままとなり、崩落で出入り口がふさがってしまった。大本営予定地だった舞鶴山地下壕は、昭和二十二年から中央気象台(三十一年七月に気象庁に昇格)に引きつがれて地下地震観測所として使用され、一般の出いりは禁止となった。学習院の予定地だった大本営入口の建物は、同年、埴科仏教会による戦争孤児たちの養護施設「恵愛学園」となった。また、政府機関の予定地だった象山地下壕では、砕石を関東方面に搬出し、復興用道路や米軍基地の滑走路建設に利用し、その後、壕内でマッシュルーム(きのこ)が栽培されたこともあった。各地下壕の入口前を通る村民は「今になってみると、まったくムダなものとなり、私有地でありながら村や個人の役にたっていない」(『信毎』)と冷ややかで、人びとの記憶からしだいに忘れられようとしていた。
戦後三〇年近くたって、篠ノ井旭高等学校は、昭和五十八年(一九八三)から平和教育の一環として沖縄修学旅行を実施していたが、その発展として松代地下壕の研究に取りくむこととなった。昭和六十年(一九八五)十月三日、父母八人、教師六人、生徒五人が参加して初めて地下壕の実地調査をおこない、報告をまとめた高校生が校内で発表した。つづいて同校教員八人が象山地下壕を実地調査し、地下壕に関する資料や現地の地質などからみた教育的価値や保存方法などを検討し、教材として十分価値があるとの見方を示した。また、同校生徒やPTAでは、地下壕を戦争の貴重な歴史資料として保存したいとの願いをもとに、見学者にたいし、署名活動を始めるとともに、地下壕の保存・公開を訴えた手紙を、柳原市長をはじめ吉村県知事、中曽根首相、国連事務総長に送り、返書を待った。
同年十月初旬、柳原市長からは、「歴史的景観の一つ、松代昭和史跡として後世に残したい。」との返書があり、活動意欲を高めた。同校では翌六十一年二月、クラブ名を「篠ノ井旭高等学校郷土研究班」と改め、現地調査による地下壕の保存運動と朝鮮人強制労働の調査記録などを展示する平和祈念館の建設構想を熱心に訴えつづけ、「松代大本営を語るつどい」を開いたりした。また、郷土研究班は、同年九月、塚田市長に面会し、平和祈念館建設について陳情し理解をもとめた。同年十月初旬には、県知事から「長野市と協力」との返事を得た。以後、郷土研究班の調査研究活動は、市民団体の運動とも連携し、現在に至っている。
昭和六十二年一月に結成された「松代大本営の保存をすすめる会」(会長青木孝寿)は、同年八月二日、音楽・芸術を通じて地下壕跡の保存と平和運動を広げようと、長野市民会館で演劇など芸術文化団体を集めた「マツシロのつどい」を開いた。また、同年十一月二十一日、第二回総会を市内で開催し、地下壕の保存・公開、平和祈念館(仮称)建設のための行動目標を定め、地下壕保存を具体化するよう市に要求することを決めた。また、会独自として、案内標識の設置や松代大本営案内用パンフレットの作成、見学者への現地案内ボランティア、地下壕内の環境調査、平和祈念館の建設、地下壕保存のための資金づくり等の運動をすすめた。同会は目標三万人の署名活動を計画し、平成元年(一九八九)二月、JR長野駅前など街頭で署名募金活動をおこない、初日に約四〇〇人の署名を集めた。
いっぽう、市はこれまで、地下壕保存の方針の下に、内部で検討し、地下壕一本を保存するにもコンクリート巻きたてや電気設備などに多額の費用がかかり、国や県の補助の見通しもないとしていたが、昭和六十一年十二月下旬、松代公民館において「松代地下壕保存検討会」を発足させた。同会で地下壕の保存・公開問題に関する懸案事項について検討したところ、「当面は地下壕の公開や資料館建設は困難である」との見解を示した。
六十三年(一九八八)、象山地下壕入り口の地元、松代町西条表組地区では、大本営跡の公開へ向け地元にとって好ましい提言をしようと、区内の代表二〇人を集めて協議会を発足させた。地下壕入り口は、表組にある通称「恵明寺口」のほかに、象山南側(清野地区)には土砂に埋まった五つの入り口があり、公開が決まれば、南側を中心に開発される可能性もあることから、道路や駐車場整備など地下壕保存・公開にともなう「恵明寺口」側の環境整備によって、地域活性化につなげようとする動きがあった(『信毎』)。
市は、昭和六十三年十二月下旬になって、「松代象山地下壕保存等対策委員会」へと組織を発展させ、現地調査を実施するなどして、地下壕の保存・利用のための具体案作成に取りくんだ。同委員会では地下壕保存にかかわる安全対策工事や国・県の補助の見とおし、地下壕出入り口の土地管理に関する地主の了解、見学者の来訪にともなう安全対策および周辺住宅への環境問題などについて調査・審議をかさねた結果、平成元年(一九八九)九月十八日、公開の時期および区域について市長に中問答申した。
市は、同年十一月三日、象山地下壕の恵明寺側入り口から約七〇メートルを公開し、見学日時を土曜、日曜、祝日の午前一〇時から午後三時までを原則とした。公開を知って、山梨県をはじめ県内外の見学者が急に増加しはじめた。その後、安全対策工事を加えた四三〇メートルをふくめ合わせて約五〇〇メートルを、平成二年八月二十五日から全面公開した。二年間検討をつづけてきた保存等対策委員会は、同年九月十一日、地下壕の保存・公開方法や五〇〇メートルの公開範囲などを内容とする本答申を市長に提出した。保存をすすめる会では、答申を一定の成果として認めるいっぽう、「五〇〇メートルでは、岩に残るハングル文字や兵士の似顔絵などを見学できない。公開範囲を拡大すべきだ。」と主張した。また、いっぽうには、「これ以上、公開は必要ない。」との地元委員の意見もあった。
象山地下壕の見学者数は、平成元年十一月の公開から五年間で、三三万六四〇〇余人に達し、さらに、十年度末までに七九万七六〇〇余人、平成十二年度末には、ついに一〇〇万人をこえた。同十三年度は一二万余人、同十四年度は、四月から五ヵ月間で六万一九〇〇余人と、松代地下壕への高い関心度がつづいている。見学者がふえたのは、保存をすすめる会をはじめ市民団体がインターネットなどの情報発信によって全国的に関心が高まったこと、他県の中学校や高等学校の修学旅行での見学が増加したほかに、旅行会社が一般客のコースに組みこんで実施しているのも要因となっている。
平成二年十一月十一日、松代公民館において、「戦後責任を考える集いinマツシロ」が開かれ、東京・愛知など全国で地下壕保存などにかかわるグループ、学生、在日朝鮮人、留学生など二百数十人が参加して、「慰霊碑建立の日韓市民協力事業への第一歩」を宣言した。また、同日、象山地下壕恵明寺口では、保存をすすめる会が、前年につづいて犠牲者追悼集会を開くとともに、松代地下壕に関する資料館(平和祈念館)建設のための運動を前進させることを確認しあった。
平成三年二月十二日、社会党中央本部強制連行問題対策特別委員会松代大本営実態調査団が地下壕を訪れ、正・副委員長二人の参議院議員をふくむ九人が、韓国の松代大本営地下壕の調査・研究会のメンバーおよび同行の韓国中央日報社記者をともなって現地を調査し、「実態解明に政府は本腰を」との見解を示した。
同年六月八日、大本営地下壕工事にともなって朝鮮人慰安婦が働かされていた、象山地下壕近くの家を保存する運動をすすめていた実行委員会(代表山根昌子)が、東京都豊島区東京芸術劇場で集会を開き、道路拡張工事のさい取りこわされることとなった家を解体移築させるため、当面、解体費用の募金を開始し、解体業者を探すことになった。また、実行委員会では、同月二十九日から三十日にかけて、地下壕や慰安婦の家跡を見学する二〇歳代から七〇歳代までの幅広い参加者によるバスツアーを実施した。
平成五年五月二十二日、保存をすすめる会はじめ市民団体や有志が県勤労者福祉センターで集会を開き、松代大本営地下壕跡地の清野側に平和祈念館を建設することを期して、仮称「平和祈念・松代大本営資料館建設準備会」を発足させ、長野五輪前の完成を目標に、資料館構想の具体化や署名募金活動を推進することを決議し、運動を強めることとなった。翌二十三日、保存をすすめる会が、県にたいし、「地下壕跡を文化財として県指定にしてほしい」旨の要望を提出したが、県文化財保護委員会の有形文化財・史跡部会で審議した結果、「長野市が文化財として指定しないことで結論をだし、歴史・学術的な評価も分かれている現在では、県として指定することはできない」とした。
「松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会」(委員長塩入隆)は、平成三年(一九九一)から集めた募金を元に、同七年八月、大本営象山地下壕入り口わきに「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」を建立し、除幕式をおこなった。以後、この「祈念碑を守る会」では、同会メンバーや在日本朝鮮人総連合会県本部や在日本大韓民国民団県地方本部代表などが集まって、毎年「祈念の集い」を開いている。
また、平和祈念館建設および慰安婦の家の移築については、用地も確保され、設計図が完成するなど具体化が進んでいた。しかし、建設資金の募集は、経済不況の影響もあって市民や行政の理解と協力がすすまず、加えて、平和祈念館建設予定地の清野地区と慰安婦の家移築予定地の西条地区両住民による根強い反対にあうことなどもあって、平成九年、長野冬季五輪前を目標とした建設は取りやめとなった。
いっぽう、平成七年(一九九五)三月、文化庁では史跡指定の時代基準を、従来の「明治中ごろまで」から「第二次大戦終結ころまで」に改正すると発表した。保存をすすめる会では、松代地下壕は「第一級の史跡に値する」として、史跡指定を強く要請した。長野市文化財保護審議会は、平成二年の審議会で、「松代大本営地下壕は、史跡に当たらない」としていたが、平成七年六月十五日の長野市文化財保護審議会で、文化庁の史跡指定の時代基準の改正に照らしても、「実際に戦闘があった場所でなく、国の史跡指定基準の戦跡とはいえず、本年五月に史跡に指定された広島の原爆ドームとは意味が異なる」とし、「大本営地下壕は史跡に当たらない」ことを改めて確認した。保存をすすめる会は、以後も再三にわたり、史跡指定を市に要請したが、市との協議は平行線をたどっていた。
平成十年十月、象山地下壕保存等対策委員会小委員会(地元区長や地権者、地元議員)は、象山地下壕のうち非公開区間の立ち入り調査を実施し、第一回検討会を開いた。その結果、崩落箇所や素ぼりのままの状態からみて、「全面的に立ちいり禁止とすべきだ」とするいっぽうで、「立ちいり基準を満たせば学術調査は認めてよい」などと論議されたが、結論はださず、さらに論議をかさねることとなった。
平成十年十月二十九日、市教育委員会は、文化庁がすすめる新しい史跡指定の基準による「第二次大戦終了前後までの軍事に関する遺跡の所在調査」にたいし、従来の方針をかえ、「松代大本営地下壕跡は、日本の近代史を理解するうえで欠くことができない」とし、「最高のランクAの評価が適当」として、文化庁に報告した。市の報告にたいし、文化庁は、「地元の意見を尊重して検討会にかけたい」とした。それまで遺跡としての価値は低いとされてきたことにたいし、その評価が変更されたことによって、松代地下壕は国の史跡指定に向けて動きだすことになった。今後、文化財指定に向けて懸案事項が解決し、条件が整えば、国の文化財保護委員会に諮間され、現地調査を経て、平成十五年以降に史跡指定に関する結論がだされる見とおしである。
平成十四年(二〇〇二)八月五日、『信毎』は、社説で「歴史的意味を見すえ」と題し、地下壕の史跡指定および保存活用について大要つぎのように論じた。
長野市松代町の松代大本営地下壕群が、国の「近代遺跡」指定へ向け大きく踏みだした。詳細調査がおこなわれる。地下壕の歴史的意味をしっかり見つめたい。遺跡の生かし方について、関係者が対話を深めていくよい機会である。大本営は戦時の最高統帥機関だった。昭和二十年八月十五日に戦争が終わらず、予定どおり松代に移されていたなら、地域一帯は米軍のはげしい攻撃にさらされていただろう。長野空襲の比ではない多くの犠牲者を出していたに違いない。この一つをとっても地下壕が問いかけるものは重い。(中略)負の遺産とはいえ、しっかり守って平和の尊さを伝えていく決意を固めるときだ。建設工事で働いた人たちの苦痛も見のがせない。日本人のほか、朝鮮半島から強制連行された人や、自主渡航してほかの現場から移ってきた多数の人々が従事した。朝鮮人労働者の衣服、食事、宿舎は劣悪で、多くの栄養失調者や病人をだしたとされる。深い反省の材料としたい。松代大本営の存在に注目して研究や保存運動をしてきた研究者、市民団体、高校生らの地道な努力は評価できる。昭和六十四年から一般公開の象山地下壕には、今も多くの見学者が訪れている。(中略)詳細調査を機に、地元住民の心情や意向も尊重して、保存や活用の方法を決めていく段階にきている。(中略)住民、市民団体、行政などが同じテーブルにつき、冷静に対話をすすめ、一致点を探るべきである。市の積極的な対応も重要になってくる。(中略)再び日本が戦争の道をたどらないために松代の大本営跡を保存活用し発信することは、松代ひいては信州のイメージを高めるはずだ(後略)。