平成十年(一九九八)二月に開催された長野オリンピック冬季競技大会を記念して、翌平成十一年四月十八日(日)第一回「長野オリンピック記念長野マラソン」(以下長野マラソン)がおこなわれた。この長野マラソンは、オリンピックで多くの感動の名場面を生んだ各競技会場(一部)をコースに設定し、世界のトップランナーと市民ランナーがいっしょに参加するフルマラソン大会であり、同時にこの大会から、将来のオリンピックマラソンでも活躍できるランナーが育つことを期待するものであった。
長野マラソンは、主催者として日本オリンピック委員会が、長野県・長野市・長野陸上競技協会・信濃毎日新聞社とともに開催するものであるが、その前身には、過去四一年間にわたって長野市内で実施していた「信毎マラソン」があり、それを衣がえして計画されたものである。一国の地方都市がおこなうマラソンに「オリンピック」の名称を冠したものは、世界で初めてであり、マラソン発祥の地ギリシャの「アテネマラソン」との提携も決められている。前身の信毎マラソンは、昭和三十三年(一九五八)四月二十日に、信濃毎日新聞社が創立八五周年の記念事業の一環として始めたもので、平成十年三月の第四一回大会まで毎年おこなわれ、当初から「新鋭の登龍門(とうりゅうもん)」として広く知られていた。第一回信毎マラソンは、参加者五一人にすぎなかったが、年をおって三〇〇人を上まわる参加者が定着し、第一〇回(昭和四十二年)大会からは日本陸上競技連盟の後援レースにも指定された。また、この信毎マラソンでは、長野県選手の最高位者には「森本賞」がおくられた。この賞は長野県が生んだ陸上競技界の大先輩である森本一徳(往年のオリンピックマラソン出場選手)が「県選手の励みに」と第一回から寄贈されていたものであった。
このように、歴史と伝統のある信毎マラソンを引きつぐと共に、さらに、大規模で国際的にも認められ、かつ、ユニークなマラソン大会として新たに創始されたのが長野マラソンである。平成十一年第一回長野マラソンの規則の主な点は、つぎのようである。
① 特別協力は、日本オリンピックムーブメント推進協会・ギリシャ陸上競技連盟・NHK(第二回から共催者)・SBC。
② 種目・コースは、フルマラソン、四二・一九五キロメートル、日本陸連公認片道コース(図14)。
③ ゴール制限時間は、五時間。
④ 関門規則は、原則として五キロメートルごとに八ヵ所の関門を設け、各関門の閉鎖時刻後はコースから歩道にあがり、競技をつづけることはできない。
⑤ 参加資格は、日本陸連登記・登録者、未登記・未登録の一般競技者、満一九歳以上の男女・日本陸連および主催者が推薦する国内外の競技者。
⑥ 参加賞は、オリジナルTシャツほか。
⑦ 表彰は、総合の部は陸連登記・登録者と一般競技者は男女各一位から一〇位を入賞とし、年代別(三〇歳未満・三〇歳代・四〇歳代・五〇歳代・六〇歳以上)の部は各部一位から六位を入賞とする。
この大会へのエントリー状況は表20のようであるが、一般男女の中には身体障害者や高齢者も混在していた。視覚障害をもつKさん(六四歳)は、三〇歳の時視力を失い半ば捨てばちになっていたが、人生を再出発するきっかけにと、四〇歳代後半からジョギングを始め、四七歳で盲人マラソン大会で優勝した。それ以来、一〇キロメートルマラソンやハーフマラソンなどに出場、練習は飼い犬といっしょに毎日早朝に走った。長野マラソンでは三〇〇〇番~四〇〇〇番ぐらいをねらって出場を決めた。また、七三歳のKさんとTさんは小学校からの同級生で、長野マラソンの本番に向けてトレーニングに励み「とにかくレースに出るのが楽しみ、やみつきになった」と話し、この二人より高齢者は三人だけで、「この歳になって不安が無いわけではないが、こうして参加して走るのも一つの社会参加なんです」と話した(『信毎』)。
大会当日は晴天に恵まれ、午前九時一〇分山ノ内町オリンピックメモリアル聖火台前を予定どおりにスタートした。沿道は満開の桜、そして応援に繰りだした約一〇万人の観衆からはランナーに声援がおくられた。これら当日の実況放送は、NHK教育テレビとSBCラジオで全国生中継されたが、世界一流選手と一般市民ランナーが混在する大会を「どう伝えるか」が大きな課題で、NHKでは初めて異例の態勢をとった。人も機材も通常のレースの二倍近くが必要のため、琵琶湖マラソンのスタッフが七〇人弱にたいして、長野マラソンでは一〇〇人以上を動員して実況中継に当たった。
第一回長野マラソンの申込者中、実際に出走し、さらに、制限時間の五時間以内に完走した者は表21のようであり、出走者にたいする完走率は、男子八九パーセント・女子八二パーセントであった。優勝者は、男子がジャクソン・カビガ選手(ケニア)二時間一三分二六秒、女子はワレンティナ・エゴロワ選手(ロシア)二時間二八分四一秒であった。日本勢は川島伸次選手(旭化成)が一位に一二秒差の二位であった。
この大会は成功裏に終わったが、その運営にはボランティアの協力が欠かせなかった。沿道の住民や企業、ボランティア団体、女性団体、学生等による約三〇〇〇人におよぶボランティアは、担当部所によってはすでに一週間前から研修会が開かれたり、打ちあわせなどをして大会を支えた。長野五輪・パラリンピックのボランティア経験者も多くいた。主な仕事は、①五〇〇〇人におよぶ選手の受けつけ・参加賞の引き渡し ②選手や観客の誘導・交通整理 ③選手や観客の安全確保や清掃などのコース整備 ④コース途中一五ヵ所に設けられた給水所で選手に水やドリンク、給食などの補給 ⑤スタート地点・ゴール地点で選手たちの手荷物の受け取り・引き渡し ⑥駐車場で大会関係者や観客の車の誘導 ⑦開会式・表彰式などイベントのサポート ⑧外国人選手の通訳等であった。
長野マラソンには、一八歳以下は参加できないが、ボランティアには中学生・高校生の有志も多く参加し、コース整理やゴール地点で完走賞を渡すなどの仕事をまかされ、大会運営を支えた。
また、長野市内の小中学校では、前年おこなわれた長野五輪での「一校一国交流運動」を延長させ、活動の相手国だった国の選手を学校に招いたり、大会当日は沿道に出て選手を応援したりした。
しかし、このコースは高低差が大きいとして、平成十六年には、長野市内に変更することが決定されている。