民間放送局の開局と放送の多様化

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長野県におけるテレビ局は、昭和三十二年(一九五七)のNHKと三十三年SBCの開局以来、新しい放送局の誕生はなかった。民間放送(民放)はSBC一局であったので、東京にある複数のキー局といわれる放送局から自由に、人気番組を選択して放映することができる、いわゆるフリーネットという運営がなされていた。


写真92 民間放送SBC社屋

 長野県下で第二番目の民放テレビは、昭和四十二年から発起(代表青木一男参議院議員)された株式会社長野放送であった。新局設置の申請は多数にのぼっていたので、申請の一本化は長野県知事の斡旋によってなされた。長野放送はサービス放送を昭和四十三年十二月二十日から始め、試験放送としてはそれから異例の三ヵ月の長きにわたっておこなわれた。

 長野放送開局時にかかえた問題は、この放送局の電波がUHFであったことにあった。当時普及していたテレビは、一万円ほどもする特別なコンバータを付けなければ、UHF電波は受像できないタイプのものであった。そこで、まずはコンバータの設置をキャンペーンし、NBSという社名の宣伝をしなければならなかったのである。「NBS、NBS、テレビはNBS」というアニメを使ったコマーシャルソングは大人気となり、NBSで漫画を見ようというキャンペーンは、幼稚園・保育所まで訪ねておこなわれた。本放送は昭和四十四年四月から始まった。長野放送は東京の「フジテレビ」とネット関係を有する放送局として運営された。


写真93 民間放送NBS社屋

 カラー放送は、NHKが昭和三十八年から始め、東京オリンピックを目前に控えた昭和三十九年七月には、SBCもカラー放送を始め、カラー放送が本格化した。しかし、これは東京のキー局レベルの制作のものが主で、NHK長野放送局が、ローカルニュースのカラー化に着手したのは、昭和四十六年(一九七一)であった。長野放送は、本放送開始一年後の昭和四十五年から、自社制作番組のカラー化を実現している。

 長野県下第三番目の民放は、テレビ信州であった。第三番目のテレビ局創設を願って、四九九件もの申請がなされた。申請第一号は昭和四十六年七月であり、長野放送開局の二年後であった。この申請は、時期尚早として審査対象にならなかったという経緯がある。昭和四十八年十月、郵政省は「テレビジョン放送用電波割当計画の修正案」を示して、長野県、新潟県、静岡県方面に新テレビ局免許の方針を打ちだした。

 これにともなって、郵政省は東京で長野県第三局開局の公聴会を開催した。この当時新聞社によるテレビ局の系列化がすすんでおり、日本テレビ(NTV)系は読売新聞、フジテレビ系はサンケイ新聞が経営に参加していた。朝日新聞は日本教育テレビの株を取得して、これを全国朝日放送と社名を改め、毎日新聞は東京放送(TBS)の株を取得して系列下に収めた。

 長野県では、信越放送(SBC)がフリーネットではあったが中心はTBS=毎日新聞系であり、長野放送(NBS)がフジ=サンケイ系であったので、新テレビ局はNTV=読売新聞系とABN=朝日新聞が積極的に免許申請をめぐって運動した。

 長野県における申請の調停はなかなかすすまなかった。昭和四十九年九月、ついに郵政省が調停にのりだし、読売新聞と朝日新聞の調停会議を開催し、長野県第三局の免許申請者は長野県の地元の調整の結果に従うという合意を取りつけた。同年十月長野市で第一回「四者会談」が開かれた。即ち、羽田義知(県議中立)、河野栄司(朝日系=松本商工会議所会頭)、滝沢知足(読売系=松本電鉄社長)、滝沢喜一郎(読売系=日アス鉱繊社長)の四人であった。

 何回かの会談で、郵政省案、日本テレビ案、滝沢喜一郎案、朝日案等がだされたが、まとまらずに政変や長野県知事選挙などで調停はすすまなかった。昭和五十二年になって本格的な調停作業がすすみはじめ、四月に小林司郎長野県出納長と羽田義知県議および読売系、朝日系、北信、中信のバランスのとれた一〇人委員会がつくられた。そのメンバーは、読売系から滝沢喜一郎・塚田経雄・滝沢知足・小松多喜雄、朝日系から宇都宮元・高津昭平・青木昌尚・神沢邦雄が出席した。北信四人、中信四人ずつである。小林・羽田をのぞく企業人の八人委員会が、一〇人委員会と交互に開かれ、株式の割り当てやその他が取りきめられ、読売系有利な調停案が固まった。

 産みの苦しみを経て、昭和五十四年ついに設立発起人会の開催にこぎつけた。中南信経済界からの強い要請があって、本社は松本市におくこと、長野市には演奏所(スタジオ=放送局)をおくことになった。五十四年七月の第三回発起人会で、社名は「テレビ信州」とすることが決まり、八月十四日に免許申請をおこなった。このテレビ局は読売系と朝日系の競い合った願いを調整してできたので、クロスネットと呼ばれる運営方法がとられ、NTVとABNの双方の番組を受けいれ、役員・職員も双方の会社から出向した。

 昭和五十五年十月にテレビ信州が開局すると、TBSを主に日本テレビ、テレビ朝日から番組の供給を受けていたSBCは、看板番組の「太陽にほえろ」「アフタヌーンショー」などを失うことになり、完全にTBS系のネットに系列化された。

 長野県の民放第四局は、長野朝日放送(ABN)が平成元年(一九八九)十一月に設立された。当初の予定より一年おくれ平成三年四月一日に放送を開始した。これで東京キー局はすべて長野県内に系列局をもつことになった。この長野朝日放送の設立で、テレビ信州に出向していた役員をはじめ、報道、制作、編成、営業、技術の職員はそれぞれ朝日放送に復帰した。テレビ信州のクロスネットは解消され、長野県下でも、キー局のニュースをはじめ、番組はすべて地元局のチャンネルでみることができるようになった。


写真94 民間放送ABN社屋

 ラジオ放送は、昭和六年(一九三一)のNHK長野放送局の開局以来、NHKの独壇場であったが、昭和二十七年から、SBCが民放局として放送を開始した。その後、美ヶ原山頂に送信塔ができたので、ラジオ放送もテレビ放送も全県下をカバーすることができるようになった。しかし、新設のテレビ局はいずれもラジオ放送を開設しなかった。

 JONK(NHK長野)は、昭和六十三年(一九八八)から「長野エフエム」放送を開局した。ラジオもいよいよFM放送に、テレビはUHFの時代に突入した。この六十三年十月一日から民放の「FM長野」が開局した。長野県第三番目のラジオ局であり、民放第二局でFM専門局であった。

 FM長野は、本社ビルが松本にあり、長野市南千歳町に長野支局がある。ここにはスタジオもあるが、録音番組の収録やCMの作成が主で、番組の制作は主に松本でおこなっている。テレビ局をふくめて主力を松本市におく唯一の民放局である。出力は一キロワットで美ヶ原から送信している。長野全県下をカバーしているが、音波の質の向上を期して県下各地にサテライト局を設置しており、長野市地域は善光寺平サテライト局によってカバーされている。特別にキー局には系列化されていないが、番組はFM東京とネット化されている。

 長野市にはコミュニティーラジオ局の、「FM善光寺」がある。長野市の第四次五ヵ年計画中に、観光振興と案内のためにFM局設置という条項があった。平成六年設立発起人会が開催され、北信地方のマスコミ各社が参加し、長野市と須坂市の第三セクターとして出発した。時あたかも阪神淡路大震災が起き、地域放送の有効性が認識され、観光のほかに災害対策放送として期待された。FM善光寺の開局は全国で一九番目であった。


写真95 ながのコミュニティー放送「FM善光寺」

 電波の受信エリアは善光寺平一円で、北は牟礼・飯山・志賀高原、南は戸倉上山田近辺まで受信が可能である。スタジオは中央通りの大門町にあり、通りからスタジオが見えるオープンスタイルである。地域の催し物、展覧会、講演会のお知らせなど、地域密着型の放送である。

 長野オリンピックという世紀の祭典が長野市で開かれることになり、NHK長野放送局は、平成四年(一九九二)には放送局と長野放送会館の移転を決定した。平成八年から新放送会館の起工式をおこない、冬季オリンピック開催の平成十年に、放送会館を長野市城山からオリンピック施設の一つビッグハットに近い長野市稲葉に新築移転して、オリンピックの世界への発信に備えた。地元放送局では最大の投資をおこなった。また、長野放送局に強力な人材を配置して、ソフト面の充実もはかった。

 信越放送も地元局の老舗(しにせ)として、民放の立場から地元局の放送使命を感じて、諸準備を早くから開始した。ロサンゼルス大会以来オリンピックの商業化がすすみ、スポンサーと放送権者の権利が最大限に保護され、ライツホルダー(放送権)の一員でも、ローカル放送は競技映像の使用やオリンピックというタイトルの使用は制限された。

 競技の中継や大会の運営は、オリンピック放送機構(ORTO)が制作し、放送権をもつ世界の事業者に配信することになったので、日本ではこの配信を受けて放送することになった。そこで、NHKと民放で合同の機構をつくり、IOCとNAOCと契約した。

 信越放送は、TBSを中核としたJNN加盟各社とともに、一二〇人の大取材班を結成して取材に当たるいっぽう、地元局として独自な企画でオリンピック放送に挑戦した。また、オリンピック放送機構の幹事社として、NHKとともに制作にかかわった。SBCは、東京のIBCスタジオのほかに、TBSニュースとして白馬村の旅館八方館にスタジオを設けた。また、長野駅東口にスウェーデン木材で山小屋風スタジオをつくり、テレビとラジオの放送拠点とした。ここはオリンピック情報の発信基地であった。この組織は、またパラリンピック放送にも大きな力を発揮した。

 パラリンピックでは、通常主たる競技はNHKが映像を制作し、各社に配信する形をとっていた。エムウェーブ内の映像センターはパラリンピック国際放送センターでもあり、ここで収録された映像や音声が世界に送られるとともに、SBCにもマイクロ波で配信された。長野放送、テレビ信州、長野朝日放送も、それぞれオリンピックの前から独自の自社番組をつくって、オリンピックに対応した。