山と里の境

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松代藩では領地を里方(さとかた)と山中(さんちゅう)とに分けていた。年貢の納め方にも大差があり、里方は籾納(もみおさ)め、山中は金納だった。立地条件がまったく違っていたから、同じ納め方ができなかったのである。産物も違っていた。

 善光寺平(だいら)(長野盆地)の町は山から里に出るところにある。長野をはじめ松代、須坂、稲荷山などみなそうである。長野も裾花(すそばな)川の出口にあり、また犀(さい)川の出口にも近かった。町の北部には葛(かつら)山(八一二メートル)・大峰(おおみね)山(八二八メートル)などがそびえている。その南山腹は台地になっている。地すべり被害で有名な湯谷(ゆや)団地の西につづき、善光寺雲上殿、花岡平、往生地(おうじょうじ)などがその台地にあり、四五〇メートル前後の標高である。この台地は裾花川を隔てて安茂里平柴(あもりひらしば)の台地に連なっている。この台地上には古墳がたくさんあり、花岡平には多数の五輪塔がある。往生地・花岡平の台地の裾に箱清水(はこしみず)があり、善光寺本堂(四〇五メートル)・城山(四二六メートル)なども旧箱清水村の地区内だった。

 善光寺境内入り口からまっすぐに南下する旧北国(ほっこく)街道のほぼ延長上にJR長野駅がある。駅から境内入り口まで約一・七五キロメートルである。駅の標高は三六一メートル、境内入り口の方が三一メートル高い。駅から権堂入り口までは約一〇メートル上がるだけだが、そこから上、東後町・大門(だいもん)町約三七五メートルのあいだに二一メートルも上がる。そのため大門町はかなりの坂になっている。弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺地震で大門町が、町民の三分の一が死ぬ大被害を受けたのも、家々が不安定な傾斜面に建てられていたのが主な原因の一つであった。

 扇状地の町大門町は、中世以来昭和初期まで市の中心街であった。「大門に店をもつ」のが長野商人の夢であり、「大門の旦那、後町の者共、石堂(いしどう)の奴等(やつら)」といわれたように、南に下がるほど場末だったが、町がしだいに南方に発展するに連れて、町の中心が南に移り、現在は長野駅周辺が中心になっている。