段丘の町

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市街地を東西に横切る河岸段丘がいくつもあり、はっきりわかるのが二段ある。その一つは妻科(つましな)神社・裁判所のところでよく分かる段で、妻科神社の本殿は段丘上にあり、拝殿は段丘の下にある。裁判所の南もがけになっている。鐘鋳(かない)川用水がこの段の裾に沿って流れ、その流れの一部が善光寺領と松代領との境になっていた。

 妻科は式内社の名にもなっている古い地名であるが、「シナ」を「級坂(しなさか)」つまり段丘と考えると、段丘のつま(すみ)とも解釈できる。もう一つの段丘は県議会議員宿舎と県庁のところに見られる。県庁の所在地の小字名は「幅下(はばした)」である。「幅」は「小さな崖」というような意味の語で「段丘下」についた地名であろう。この段丘に沿って八幡川用水が流れている。議員宿舎の東に接する旧旭幼稚園敷地からは蹄脚硯(ていきゃくけん)(脚が多く付いている円形の硯、市指定文化財)が見つかっている。そのほかにも特殊な出土品があり、この地に何か官庁があったと推測されている。この台地につづき後町、問御所(といごしょ)という町名がある。後町には鎌倉時代、後庁(国庁または支庁)があった。問御所は豊御所と書かれたこともあり、「トヨゴショ」といわれていたから、多分国庁の美称であろう。水内郡の郡衙(ぐんが)(郡役所)も多分この地にあり、その場所に国衙(こくが)(国庁)ができたのであろう。

 長野町は、北は芋井(いもい)・浅川地区に、東は三輪・古牧(こまき)地区、南は芹田(せりた)地区に、西は裾花(すそばな)川を境に安茂里(あもり)地区に接していた。