長野県の成立

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長野県庁の所在地としては、長野は県の北部に偏している。長野に比べると松本は県の中央に近い。近世には信濃最大の町は松本だった。近世末期、松本の人口は約一万五千、長野・松代・飯田がほぼ一万前後だった。はじめから信濃が一つの県になっていたら、県庁は松本に置くのが当然だっただろう。

 現在では長野市が人口約三六万、松本市約二〇万、松代は長野市に含まれている。このように長野が大発展した一番の理由は、県庁が長野に置かれたからである。県庁が長野に置かれるについては、いくつかの「偶然」があった。


写真2 長野県庁

 明治元年(一八六八)八月、伊那県が置かれ、信濃の旧幕府領(天領)を支配した。信濃は南北に長いので、同三年九月、伊那県の東北信の部を分けて中野県とし、県庁を中野に置いた。ところが同年末、領内に騒動が起き、県庁も焼かれてしまったので、同四年六月、県庁を長野に移し、長野県と改めた。長野が北信で一番繁華な町で便利だというのが移庁の理由だった。そのときはまだ松代藩、上田藩などが残っていたが、七月に廃藩置県が実施され、旧藩はいったん松代県、上田県などとなり、十一月には、それらの藩が廃止され、東北信全部が長野県になった。このとき、中南信と飛騨(ひだ)国を併せて筑摩(ちくま)県とし、県庁を松本に置いた。ところが明治九年六月筑摩県庁が全焼、八月、政府は筑摩県を廃止し、旧信濃国全部を長野県とした。この年、政府は県の統廃合を進めており、上田の人が筑摩県庁を焼けば県庁が上田へ移ると考えて放火したのだといわれ、容疑者が検挙されたが無罪になった。しかし、松本など中南信の人々はこの移庁に反対で、その後ながく松本への移庁、分県の運動がつづいた。


表1 長野町の成立