連合戸長役場

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明治十一年(一八七八)三月、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則という新しい法律が公布された。いわゆる新三法である。長野県では、同十一年十二月、いままでの一〇郡を一六郡とすることが決まり、同十二年一月に郡役所が開かれた。長野は上水内郡に入り、郡役所も長野に置かれた。

 明治十二年一月、大小区制が廃止され、各町村に戸長役場を設け、公選の戸長一人、筆生若干名を置くことが決められた。ついで、連合戸長役場が置かれることになり、明治十八年四月長野町・鶴賀町・南長野町・西長野町・茂菅(もすげ)村連合戸長役場が設置された。管轄戸数四四六六、県下最多だった。戸長は中沢与左衛門、大門(だいもん)町の住人、善光寺町年寄を世襲した旧家であり、また、中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社設立の中心人物でもあった。十九年中沢が辞任して樋口兼利が継いだ。連合戸長役場は宝林院に、ついで旧宝林院念仏堂に置かれた。のちの城山小学校の地である。二十年には立町(たつまち)へ移された。