明治二十一年(一八八八)三月、市制・町村制が公布され、長野県では二十二年四月一日に施行された。県下新町村三九一が発足した。長野は連合戸長役場管轄の区域がほぼそのまま長野町になった。戸数五五九六、人口二万四五二九であった。
長野町に示された最初の案は長野連合戸長役場の区域のうち、妻科(つましな)・西長野(一部)・茂菅(もすげ)を一村に、長野・南長野・鶴賀などを一町にし、箱清水(はこしみず)は三輪(みわ)・宇木(うき)・上松(うえまつ)と合併して一村になるという案だったが、関係町村の反応は賛成反対さまざまでまとまらなかった。県は第二次の合併案を示した。これは長野連合戸長役場の区域をほぼそのまま長野町にするという案だったが、この案にも異議が多くまとまらず、結局県から示された第二次案とほとんど変わらぬ線で命令合併させられた。長野町・南長野町・西長野町・茂菅村の四町村が合併して町村制による新しい長野町ができたわけだが、細部については多少の組み替えがあった。
(1)七瀬が鶴賀町から分かれて芹田(せりた)村に入った。ただし、芹田村がのち長野市に合併したので七瀬はその後は大字鶴賀に入っている。
(2)三輪村のうち田町(武井)・橋場(淀(よど)ヶ橋)が県の案では長野町へ入るはずだった。この二集落は武井組・橋場組と呼ばれて長野町つづきだったが、三輪村は強く反対して三輪村に残ることになった。田町は権堂分にもあるので、三輪村では三輪田町という集落名になった。
(3)居町(いまち)(権堂のうち)が鶴賀町から分かれて芹田村に入った。鉄道開通により地域的に七瀬に含まれてしまったためである(荒屋が同じ理由で三輪村から分かれて芹田村へ入った)。
役場は立町(たつまち)にあったが、明治二十七年十月、現城山小学校構内(校門を入って左側)に新築移転した。町長は連合戸長役場戸長の樋口兼利がそのまま留任した。明治二十五年、樋口町長が死亡して中村兵左衛門(上水内郡柏原村出身)が町長になった。