近世には信濃第一の都市は松本で、松代、長野がそれに次いでいた。県庁が置かれてからは官庁・公共機関が長野に集まり、長野の人口はほぼ松本に匹敵するようになった。松本は明治二十七年ごろから市制施行の運動を始めたが成功しなかった。分県運動に熱中して、納税拒否運動や警察署襲撃事件を起こしたため、政府ににらまれて許可されなかったのである。長野は明治二十三年(一八九〇)に市制施行基準の二万五〇〇〇人を超え三十年ごろにはほぼ三万人になった。明治二十九年十一月市制施行の申請書を内務大臣に提出、翌三十年三月八日認可され、同四月一日県下で最初の市制が施行された。戸数五五二三、人口二万九二八五、数年後作られた記念市歌には、
人口三万家六千 丁字のかたに連なりて
頭(かしら)に頂く善光寺 足にふまゆるステーション
と歌われている。
市役所は城山小学校校門内北側の旧町役場に置かれた。七月に初代市長に佐藤八郎右衛門(小県郡上塩尻村出身)が就任した。