大正十二年の合併

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隣接町村を合併することは、早くから長野市の念願だった。大正六年(一九一七)牧野市長は、芹田(せりた)村の一部と三輪(みわ)村の一部を市に編入しようとしたが、成功しなかった。大正十一年六月、岡田長野県知事は、芹田村・三輪村・吉田町を長野市に合併する案を示して、関係市町村会の答申を求めた。長野市も三町村に働きかけたので、七月三十一日に吉田町会が賛成の答申をし、次いで芹田・三輪両村も賛成した。知事はさらに古牧(こまき)村も合併するようすすめた。この岡田知事はなかなか先見の明のある人で、当時長野市の中央通りを幅八間に拡張しようとしていた案を一〇間幅に改めさせたりした。ところがどういうわけか内務省が古牧村の合併を諒解(りょうかい)せず、翌年六月になってようやく認められた。

 大正十二年七月一日、上水内郡吉田町・芹田村・古牧村・三輪村の四町村が長野市に合併した。人口は三八パーセント、戸数は三六パーセント増え、面積は東西六六五四メートル、南北七〇九一メートルで、約四七平方キロメートル、約四倍になった。


表3 大正12年合併市町村の戸数・人口