新憲法にもとづいて、地方自治の民主化などを決めた新しい地方自治法が、昭和二十二年(一九四七)から実施された。自治体としての民主化はすすみ、する仕事も多くなったが、そのためには財政がしっかりしていなければならない。昭和二十四年のシャウプ勧告でも、町村合併の必要性が強調された。そこで長野県でも同二十六年に「市町村適正規模調査委員会」を設置して研究をすすめ、二十七年六月には「市町村適正規模に関する試案」を公表した。二十八年十月には町村合併促進法が施行され三十一年九月までに、人口八〇〇〇以下の小規模な町村を三分の一に減らす案が発表された。長野県でもこれにもとづいて合併案をつくり、三七二町村を三十一年九月までに一六八町村にすることにした。
長野市では、昭和二十八年七月ごろから近郊の村々に働きかけ、七月にはまず古里に話をもちかけた。九月には市議会議員一九人で「長野市近村合併委員会」を設け、十月には朝陽(あさひ)・柳原(やなぎはら)・大豆島(まめじま)・浅川(あさかわ)・安茂里(あもり)の五ヵ村に合併を申しいれた。これらの諸村のうち、古里がいちばん早く合併を決定し、十二月九日に申し合わせ書に調印、翌二十九年一月、柳原・大豆島・浅川・朝陽の諸村も合併に同意した。二十九年に入ってから、若槻(わかつき)・長沼・芋井(いもい)・小田切(おたぎり)の諸村にも合併の機運が起こった。安茂里ではいろいろな意見が出てもめ、合併対策研究会が六回も開かれ、三月五日村民投票をおこなって賛成八五・九パーセントになったので合併を決めた。安茂里は市街地に近接しているのだが、一種独特の気風があって合併をしぶる空気もあった。さて、以上の一〇ヵ村は、三月十七日に合併を申しこんだ芋井村を最後に、すべて合併が決定し、所定の手続きをおえて四月一日から長野市が誕生した。面積は一五九平方キロメートルで約五倍になり、人口も十万七千余人から約一五万人と五割ほどふえた。
この合併の特徴は、商工業や官庁・会社の集中する旧長野市が周辺農村を合併したということである。新市のなかで旧市の占める割合(戸数)は商業九一パーセント、工業七九パーセントと圧倒的で、その他(主としてサラリーマン)は旧市が九七パーセントとほとんど独占していた。二十九年の時点では、まだ一般住宅の郊外進出はなかった。