昭和四十一年の大合併

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昭和二十九年(一九五四)の合併後間もなく、また、合併問題が起こってきた。昭和三十一年に七二会(なにあい)村から合併の申しいれがあった。三十七年十月、市議会に合併審議委員会が設けられた。この審議会は、次のような合併計画を立てた。

 第一次 篠ノ井市・更北(こうほく)村・川中島町・松代町・豊野町・七二会村の六市町村

 第二次 更埴市・須坂市・戸隠村・牟礼村・小布施村・若穂町・上山田町・戸倉町・坂城町

 第三次 中野市・山ノ内町


写真5 市役所 明治31年竣工。入口左右に二つの塔を持つ。昭和24年改造、平成3年にとりこわされた。明治34年に左側に警察署ができた(写真は明治35年当時)

 この合併計画にもとづき、三十八年二月、まず第一次合併計画の六市町村に合併の意向を打診したが、七二会村のほかは、積極的反応がなかった。翌年十一月から十二月にかけて合併審議委員会は市町村別に議会代表者と理事者を長野市に招き、審議した。このとき、若穂町も第一次計画に繰り上げた。当時は高度成長期で、市の人口は約一七万人、県庁所在地で二〇万人未満の市は二、三しかないありさまで、合併による市の躍進が期待された。昭和四十年には合併問題協議会ができ、かねて合併の申しいれのあった信更(しんこう)村も加え、「長野市外一市四町三ヵ村合併促進協議会」を発足させ、会長に夏目忠雄長野市長を選出した。長野県は、上水内郡全部(二町七ヵ村)を長野市に合併させる案だったが、長野市はこれをことわっだ。地区評や社会党は反対の動きをみせたが、反対運動は盛りあがらなかった(『長野市合併一〇年誌』)。

 昭和四十一年(一九六六)六月二十日、三十日に、法定合併協議会をおこない、篠ノ井市・川中島町・松代町・若穂町・七二会村・更北村・信更村との対等合併を決めた。新市の名称を長野市とし、いままでの庁舎を庁舎とし、地方税は旧長野市の税率を基準とし、高いものは切り下げ、低いものは当分のあいだそのままとすることなどを決めた。関係市町村は、七月二日と四日の議会で合併決議をし、四日に県へ申請、十二日、県議会で議決された。こうして、昭和四十一年十月十六日に新長野市が誕生した。面積四〇四平方キロメートル、人口二六万九一五九。市人口は全国第六九位から、いっきょに第三一位にあがった。

 合併市町村のうち、篠ノ井・松代・若穂・川中島・更北の市町村は都市的人口(商工・サラリーマン)が過半を占めていたが、七二会・信更二村はその比率が三〇パーセント前後だった。旧長野市(昭和二十九年合併の市)には、会社(資本金一〇〇〇万円以上)一〇四社のうち、九六社があるなど、経済的には、まだ圧倒的な地位を占めていた。