善光寺付近の古墳

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昔の地図を見ると善光寺の境内にもいくつかの古墳があった。境内続きの湯福(ゆぶく)神社の境内にも古墳の石室の一部が残っている。合同庁舎の地(妻科)には盲塚という古墳があり、今も字名は盲塚、妻科神社本殿の場所には宝塚という古墳があり、今もその西の通りを通称宝塚通りという。つまり善光寺境内続きの台地は田子(たこ)古墳群、平柴台古墳群のような古墳群があったらしい。

 市街地の古墳はたいていなくなってしまったが、善光寺裏山一帯には今もかなりの古墳が残っている。『長野県史』の遺跡地名表に出ている古墳は、つぎのとおりである(一部省略)。

 上松(うえまつ)地区(二八基)

  地附(じづき)山一号古墳(前方後円墳 長さ三九メートル)、二号~四号古墳

  上池ノ平一号(合掌式石室)、二号、三号古墳

  駒形嶽(こまがたけ)東平一号~六号古墳、滝上(たきうえ)山一号~三号古墳

  蟹沢(かにざわ)古墳、金平社古墳、湯谷(ゆや)一号~三号古墳、湯谷東一号~七号古墳

 箱清水・往生地(おうじょうじ)・西長野地区(八基)

  花岡平一号古墳前方後円墳?(古墳ではないという説あり)、二号古墳

  小丸山一号~三号古墳、西長野一号~三号古墳

 長野県の前方後円墳は善光寺平と下伊那地方に集中しており、善光寺平の前方後円墳は五世紀中葉までには造り終えられたといわれる。地附山一号古墳は山頂にあり、古い様式をもっている。この地の首長の墓だが、長さは森将軍塚、川柳将軍塚の約半分しかないから、その首長はあまり大勢力者ではなかっただろうが、三つの石室があるから何代か追葬したのかもしれない。

 上池ノ平一号、三号、四号古墳が合掌式(屋根形)石室をもっているのが珍しい。この様式の石室は大部分が積石塚(つみいしづか)にともなうもので、大室(おおむろ)古墳群にその例が多く見られる。一説に朝鮮帰化人が築いたものともいうが明らかでない。上池ノ平古墳のものは普通の土の古墳の石室が合掌式になっているもので、同じ様式の古墳が吉(よし)に二基、安茂里(あもり)の萩(はぎ)の峰に一基ある。上池ノ平一号古墳からは埴輪(はにわ)が出ている。

 湯谷一号古墳からは、直刀五、金環八、鉄鏃(てつぞく)五〇、轡(くつわ)三、帯金具(おびかなぐ)三、ガラス小玉一五〇など、湯谷三号古墳からは勾玉五、ガラス小玉六〇など豊富な品が出ている。これらの古墳は地附山一号古墳のほかはみな円墳で古墳時代後期、五、六世紀のものらしい。善光寺を創立した豪族の墓も含まれているだろうがよくは分からない。