県町(あがたまち)遺跡

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県庁の東側にあった幼稚園が移転し、その跡ヘホテルができるので緊急発掘がおこなわれた。調査されたのはわずか三〇〇平方メートルほどの地域だったが、珍しいものが続々出てきた。

 ここに建物があったのは、古墳時代中期から平安時代末の一一世紀までだった。奈良時代らしい建物跡、奈良時代の様式をもつ蹄脚硯(ていきゃくけん)の一部、一一世紀ごろの金銅装飾金具残欠なども発見された。蹄脚硯は脚のたくさん付いている円面硯で、主に官庁で使われた。飯田市の恒川(ごんが)遺跡からいくつも見つかっている。この「ゴンガ」は「グンガ」(郡衙)の訛(なまり)らしく、伊那郡の郡衙がここにあったと考えられる。蹄脚硯だけでなく、建物跡や金銅装飾金具などから見て、ふつうの集落の跡だけではないらしい。奈良時代に官庁の建物があり、平安時代には住居になってしまったが、それでも普通の庶民ではなく、金銅装飾具を着けるような上流の人びとが住んでいたのかもしれない。

 古代の科野の王の子孫は国造(くにのみやつこ)として朝廷に仕えた。その本家は金刺(かなさし)といった。金刺の有力な一家(たぶん本宗)は一の宮諏訪社の祠官になり、やはり有力な一家は水内郡の郡司(ぐんじ)になり、諏訪の分社を建てた。また善光寺を建てたともいわれる。県町遺跡は水内郡の郡衙の一部ではなかろうか。鎌倉時代の後庁は郡衙の跡か、その近くにあったのだろう。