郷(ごう)は律令国家の地方行政組織の末端の単位だった。はじめ里(り)といい、つぎに一時、郷の下に里を置く郷里制になったこともあるが、天平(てんぴょう)十二年(七四〇)里が廃止され、以後はずっと郷の制度がつづいた。郷は五〇戸で編成されるが、この戸は郷戸(ごうこ)ともいわれ普通の戸(房戸(ぼうこ))をいくつか含んでいた。郷はいくつかの集落を含んでいた。郷は九世紀ごろ、全国に四〇四一郷あり、そのうち信濃には六七郷あった。
北信二九郷(水内郡八・高井郡五・更級郡九・埴科郡七)、東信一六郷、中信一〇郷、南信一二郷となっており、北信四郡が四三パーセントを占め、長野盆地に人口が多かったことがわかる。
水内(みのち)郡の郷は芋井(いもい)・大田・芹田(せりた)・尾張(おわり)・大島・古野・赤生・中島の八郷である。大島は小布施町に、中島は須坂市にそういう名の集落があり、これは千曲川の流れの変化などで、もと水内郡にあった地名が向こう岸に移ってしまったのであろう。大田はのちの太田荘の地で長沼・豊野からその北部信越国境まで、尾張は尾張部(朝陽・古牧)、芹田は千田(せんだ)がその地名の名残りである。
こう見てくると、水内郡の郷名は大部分が長野旧市街地を要(かなめ)としてその東北から東南に広がる平野部に集中しており、江戸時代に川北(かわきた)といわれた地域に、人口が多かったことがうかがえる。赤生はどこか不明だが、下水内方面の郷がないから下水内のどこかであろうか。