芋井郷

29 ~ 30

平安時代末にできた善光寺縁起に、善光寺如来を水内郡へお移しする話があり、室町時代初期の縁起によると水内郡芋井郷とあるから、芋井郷は善光寺を中心とする地だろう。戦国時代には荒安(あらやす)付近が芋井と呼ばれるようになったが、もともとは善光寺付近が中心だったのだろう。善光寺平の町はみな谷から平野に出るところに発達している。多分水内郡衙もこの郷にあったのであろう。郡司金刺氏はここに諏訪社の分社を勧請(かんじょう)した。水内郡にただ一社の大社で、善光寺とともに金刺氏によって、今の善光寺境内付近に祭られたのだろう。

 善光寺の古い境内は元善(もとよし)町のところにあった。その南、仁王門前を東西に走る道は、中道(なかみち)と呼ばれ、ほぼ東西一直線に千曲川に達し、その多くは現在も道路として使用されている。条里的地割をもつ水田は、この中道の周辺に広く分布し、郷も大部分がその付近やその延長上にある。郡衙(ぐんが)(郡の役所)と郡司の祭祀(さいし)する寺社が芋井郷にあり、そこに現在の長野市の核になる町が発生したといえよう。