信濃の荘園(しょうえん)は、ほとんど寄進地系荘園だった。
寄進地系荘園は地方武士らが自分の私領を有力者に寄進し自分は管理者として実権をもちつづけようとしてできた荘園で、主に一一世紀末から一二世紀初めの院政期に成立した。水内郡にできた荘園のうち、現在の長野市域にあったものはつぎのとおりだった。
若月荘(若槻) 皇室領、のち新熊野社領(地頭若槻氏)
弘瀬(ひろせ)荘(芋井広瀬) 皇室領(地頭落合氏)
市村高田荘 平氏、のち皇室領(地頭市村氏、公領混じる)
今溝(いまみぞ)荘(高田北条・中村) 松尾社領
小曽祢(こそね)荘(七二会?) 皇室領
善光寺 三井(みい)寺領
善光寺領(河合・馬島・村山・古野)
月輪寺(がつりんじ)(安茂里) 延暦寺末寺
太田荘(長野市・豊野町・牟礼村等) 藤原(近衛)領(地頭北条氏、のち金沢祢名寺・島津氏)
吉田牧(吉田) (左馬寮(さめりょう)領)
東条(ひがしじょう)荘(長野市・小布施町等) 初め平氏領、のち皇室領(地頭和田氏)
千田荘(芹田) 藤原(九条)領・公領混じる。(地頭千田氏)
水内郡の荘園は大部分が皇室領だったが、平安時代末は平氏の全盛期で平氏が北信濃に勢力を伸ばしていた。しかし、平正弘が保元(ほうげん)の乱(一一五六)に敗れて市村高田荘等を失い、寿永(じゅえい)二年(一一八三)平家が没落してその領地が没収された。
佐久郡へは甲斐源氏小笠原氏が大井荘・伴野荘の地頭として入ってきた。それと入れ替わりに佐久にいた滋野(しげの)系の武士、香坂(こうさか)・小田切・春日・落合などが善光寺西山中へ移ってきた。これらの武士たちは戦国時代まで西山中の領主として勢力をふるった。
以上の郷荘のうち、長野旧市街地と関係あるものについて考えてみよう。