弘瀬荘

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荘の名は芋井地区の広瀬から起こり、落合氏が佐久から来て地頭になった。そこで落合領とも呼ばれ、また、この地区の中心をなす山城が葛山(かつらやま)城だったので、この地区の武士は葛山衆と呼ばれた。諏訪社造営についての文書に広瀬七郷とありそのなかには吉沢・新曽がある。吉沢は茂菅(もすげ)にその地名があり、新曽は新諏訪のことらしく、弘瀬荘は茂菅・西長野の一部を含んでいたのであろう。