後庁(豊御所)跡

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この館跡は信濃国衙(こくが)兼守護所(しゅごしょ)だったところで歴史上きわめて重要な遺跡だが、現在遺跡として残っていない。ただ明治初年問御所村が県庁へ提出した地図により、ある程度の推測を加えることは可能である。裾花川の段丘上の平地で、権堂の南、昭和通り(国道一九号線)の北にあたる。問御所村は慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森忠政の検地では「豊御所村」と書かれ、現在も「とよごしょ」とも発音されている。後町と地続きであり、ここにあった国衙が「豊御所」と呼ばれたのだろう。

 善光寺は治承(じしょう)三年(一一七九)に火事で焼け、礎石だけが残っている情けないありさまだった。源頼朝は善光寺信仰が深く、善光寺再建に熱心に取り組んだ。信濃目代(もくだい)(国司代理者)兼守護には頼朝のもっとも信頼する比企能員(ひきよしかず)が任じられた。能員は頼朝の乳母比企尼の養子(娘婿)で頼朝の家族のような人だった。「善光寺の再建に協力しない者は領地を取り上げる」と頼朝は厳命し、善光寺再建を信濃の国の仕事としてすすめた。このため、目代や守護が善光寺に常駐するようになったのだろう。

 頼朝は建久(けんきゅう)八年(一一九七)三月善光寺に参詣した。そのときは比企能員が信濃守護兼目代になっていたらしい。後庁は将軍を迎えて整備されたのだろう。能員は建仁(けんにん)三年(一二〇三)北条時政に殺され、比企氏はほろび、その後、信濃守護は北条氏一族がつとめた。安貞(あんてい)元年(一二二七)歌人藤原定家は、信濃国衙領からの年貢徴収権を得て信濃へ使者をくだしたが、その使者が来たとき、後庁が善光寺近辺にあり、そこに守護北条重時の家来の眼代(がんたい)(代官)がいた。後庁というのは、筑摩(ちくま)郡にあった国府の支庁の意味か、移動した国府の意か明らかでない。ただ安貞二年当時、善光寺の後庁が国府として機能していたことは明らかである。藤原定家の使者が筑摩の国府へよらず、直接善光寺へ来ていることは当時の信濃国衙が後庁にあったからで、この後庁が守護所を兼ねていたのであろう。

 北条時政は比企氏をほろぼし自分が信濃守護を兼ねたらしいが、長子義時が継ぎ、つぎは義時の三男の重時が守護になった。重時は比企尼の孫である。頼朝夫婦は深く善光寺を信仰し、頼朝の像は中興開基として本堂に安置され(甲斐善光寺に現存)、政子は善光寺常念仏堂を建てた。北条氏も深く善光寺を信仰した。