横山城跡

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善光寺の横(東)の丘の横山にあり、信濃国衙の城として重要な地だった。足利尊氏と弟直義(ただよし)の争いのとき、観応(かんおう)元年(一三五〇)横山城に立て籠もる尊氏方の小笠原軍に対し、直義方の信濃守護代祢津行貞が攻撃している。一七年後の至徳(しとく)四年(一三八七)守護斯波(しば)義種の守護代二宮氏泰がこの城に籠り、攻めてきた反守護の村上頼国らと戦っている。弘治(こうじ)元年(一五五五)長尾景虎(上杉謙信)はこの城を本陣とし、約四ヵ月武田軍と対陣した。現存の城跡はこのときに整備されたらしい。

 明治十二年(一八七九)、本丸跡に健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこがみわけ)神社が建てられ、二の丸跡には社務所が建てられた。本丸跡はやや不規則な方形で北側と西側は約四五メートル、東側は約三〇メートル、面積約一七〇〇平方メートルである。二の丸跡は道路によって二分され、南半分には蔵春閣と城山公民館が建てられている。本丸の周囲には明治初年まで堀があった。また、周辺にはいくつもの郭(くるわ)があったらしく、その痕跡も残っているが、公園などになって変形しており、詳しいことはわからない。


写真7 横山城跡 本郭跡が健御名方富命彦神別神社になっている。本郭周辺にはいちめんに矢竹が生えている