長野旧市内には、宗教法人として登記されている神社が三六社ある。また、登記されていなくても、各町々の産土神(うぶすながみ)(氏神)として祭られている神社もある。ここでは、長野市で最初に県社になった城山の水内大社と、善光寺三鎮守といわれた古社妻科(つましな)神社・湯福(ゆぶく)神社・武井(たけい)神社の三社のことをまず説明し、つぎは第一地区から順次述べる。
健御名方富命彦神別神社 水内大社 城山公園、字本城 ①祭神 健御名方富命(たけみなかたとみのみこと) ②由緒 「延喜式(えんぎしき)」にのる水内郡九社のうち唯一の大社だった。神名は「諏訪神の彦神(男神)の分社」の意だろう。持統天皇(じとうてんのう)五年(六九一)朝廷は使者を遣わして龍田風神・信濃諏訪神・水内神を祭らせたが、この水内神は当社とされている。たぶん水内郡司金刺(かなさし)氏の創建であろう。承和(じょうわ)九年(八四二)以降急激に神階が進み、貞観(じょうがん)九年(八六七)には正二位という高い神階に達した背後には、中央における金刺氏の活躍があるらしい。当社がまずでき、隣接地に善光寺が建てられたらしい。善光寺境内にあった諏訪社が当社の後身だといわれる。また、善光寺本堂裏にあった歳神堂が当社の後身だともいわれ、明治十二年(一八七九)城山の現在地に移転、社殿造営、長野市では最初の県社に列せられた。現在も通称を城山県社という。
妻科神社 南長野宇本郷、県庁の西北約三〇〇メートル ①祭神八坂刀売命(やさかとめのみこと)、相殿(あいどの) 健御名方命・彦神別命(ひこがみわけのみこと) ②由緒 健御名方富命彦神分神社の后(きさき)神と伝える。貞観二年妻科地神が従五位下を、つづいて同五年に従五位上を授けられている。この叙位にもやはり郡司金刺氏の中央での活躍が関係あるだろう。鎌倉時代初期ころから「つまなし」と表記されるようになり、現在もそのように発音されることがある。近世まで本社の裏に接して御宝(おたから)塚という古墳があり、今も当社の西に接する道を宝塚通りという。当社は上社で、下社も近くにあったが当社に合併された。湯福神社・武井神社とともに善光寺三鎮守といわれる。宝暦(ほうれき)十四年(一七六四)諏訪大明神を妻科神社に改め、明治五年郷社に、昭和十六年(一九四一)県社に昇格した。現在の境内は一二九六坪、本殿は段丘の上に、拝殿は下にある。本殿は延宝(えんぽう)七年(一六七九)再建の一間社流(ながれ)造り、境内には欅(けやき)の老樹が数本あり、最大のものは樹齢七〇〇年を超える。十月二日の例大祭の盛大な花火は当地の名物になっている。
湯福神社 長野字湯福 ①祭神 健御名方命荒御魂命(あらみたまのみこと) ②由緒 善光寺境内の西北に接し、戸隠道に沿う。箱清水式土器の出た高岡は境内北側台地である。善光寺三鎮守の一社。旧郷社。「武井・妻成」とともに戸隠の王子社ともいう。湯福は伊吹、つまり風と関係ある語で諏訪社は風神としても信仰されていた。二百十日に善光寺町近辺の人びとが善光寺に参詣し、ついでこの社に参拝して風の平安を祈る習慣があった。現社殿は文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)再建。境内から大正十一年(一九二二)に古墳の石室の一部が見つかり、本田善光の墓ともいわれる。近世から祭りに相撲をおこなっていた。境内のケヤキ三本が市文化財に指定されている。拝殿前東側の樹は樹齢約九〇〇年、他の二本もそれに近い老樹である。文安(ぶんあん)二年(一四四五)「信州善光寺井福大明神」に寄進された鰐口(わにぐち)が、のちに熊野系の修験者(しゅげんじゃ)によって佐渡善光寺の地へ移されており、修験者とも関係深い神社だった。
武井神社 長野東町、武井町ともいった①祭神 健御名方命、相殿 八坂刀売命・彦神別命 ②由緒 善光寺鎮守三社の一社。武井明神と称していたが文化(ぶんか)四年(一八〇七)武井神社と改めた。弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震で焼失、万延(まんえん)元年(一八六〇)再建した。この年御柱祭がおこなわれ東町・後町・田町・権堂村・両宇木村・問御所村・横町・伊勢町・岩石(がんせき)町・東之門町・七瀬村の一二町村が参加している。大正十五年(一九二六)、昭和六十一年(一九八六)にも御柱祭がおこなわれ、これらの行列の絵馬三枚が拝殿に掲げられている。明治三十年(一八九七)境内が拡張された。境内の北に接して旧虎石庵がある。また、北に接して武井えびす社があった。
飯綱神社 茂菅(もすげ) ①祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) ②由緒 茂菅の産土神(うぶすながみ)。堂の山という丘の上に鎮座。元禄(げんろく)十年(一六九七)当時方二間の宮があった。文政(ぶんせい)七年(一八二四)の絵図によると本社と流造り茅葺(かやぶ)きの上屋、茅葺き、寄せ棟の拝殿があった。明治十六年十月八日、暴風のため倒壊、本殿はその年、拝殿は同十九年に再建した。大工は吉田の宮沢亀之助・卯造。昭和二年本殿を増築、拝殿の屋根を葺き替えた。昭和十一年玉垣・社号標・唐獅子などを新設した。祭礼には明治末期から花火が献納されている。
諏訪神社 西長野新諏訪 ①祭神 健御名方命 ②由緒 もと腰村新諏訪組の産土神で、諏訪大明神と称していたが、明治十三年に諏訪神社と改称、昭和十一年、新諏訪町が西長野から分区し、同町の産土神となり、平成七年(一九九五)社殿を改修して記念誌を刊行した。郷路(ごうろ)山麓の景勝の地にあり、九月二十日の秋祭りの郷路山の仕掛花火は名物になっている。境内に善光寺七清水の一つ瓜割清水がある。境内社養蚕神。
加茂神社 西長野加茂裏 ①祭神 玉依比売命(たまよりひめのみこと) ②由緒 もと腰村の産土神。善光寺七社の一社。古代、大本願上人が京都から勧請(かんじょう)したといい、大本願と関係が深く、秋季例大祭には上人が参詣するのが恒例となっている。本宮殿は白木方三尺(九一センチメートル)の流造りで慶応(けいおう)四年(一八六八)の造営、本殿は嘉永(かえい)七年(一八五四)の造営で瓦葺(かわらぶ)き一間社流造り、菊桐の紋をつける。拝殿は茅(かや)葺き流造り唐破風(からはふ)付きで明治七年の造営である。神宝狛犬(からいぬ)は乾漆(かんしつ)造り。境内に保科百助(五無斎)碑などがある。
諏訪社 狐池 ①祭神 健御名方命 ②由緒往生地(おうじょうじ)台地の崖(がけ)の下にあり、狐池区の産土神。境内の狐池(諏訪池)は狐池の地名のおこりになった池で、善光寺七池の一つ。戦後もかなりのあいた付近の人びとの飲料水として使用され、いまも湧水(ゆうすい)が小川になって流出している。
天神社 桜枝(さくらえ)町 ①祭神 菅原道真公(すがわらみちざねこう)・宇気持命(うけもちのみこと)・保食命(うけもちのみこと) ②由緒 桜小路(桜枝町)の産土神。明治四十一年、町内の無格社飯綱社と社宮司(しゃぐうじ)社の二社を合祀(ごうし)して三神社と称したが、昭和二十年三月天神社として届け、同二十七年、天神社として再登記した。
八幡社 横沢町 ①祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)、相殿 軻遇突知命(かぐつちのみこと)(秋葉)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)(鹿島) ②由緒 横沢町の産土神。町の北西にあり、「善光寺道名所図会」の湯福神社のところに、当社も描かれている。明治五年(一八七二)、善光寺山門西にあった秋葉社と鹿島社が合祀された。また、境内に青麻(あおそ)神社(中風の神)がある。
天神社 長門町 ①祭神 菅原道真公 ②由緒 もと西町の上角にあったが、火災にあったので、元文(げんぶん)二年(一七三七)西町庄屋佐治兵衛が現在地に移したという。西町上・南・長門町で奉祀(ほうし)。安永(あんえい)六年(一七七七)に建てた社殿が弘化(こうか)四年の大地震で破損、嘉永(かえい)二年(一八四九)に再建、さらに昭和三年に改築した。境内社に金毘羅(こんぴら)社がある。入り囗の石塔(文化四年)は、善光寺町の寺子屋師匠一八人の門弟の建立した珍らしいものである。また弘化四年の大地震に二七歳で死んだ宮下嘉之(戒名孝信)のために、父嘉成の建てた碑(荒木田久老(ひさおゆ)碑文)がある。
弥栄(やさか)神社 上西之門町 ①祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと) ②由緒 上西之門の北東角、斎藤神主家の北に接している。旧長野の祇園祭は、妻科聖徳の規(つき)の大木で「天王おろし」をし、その神霊をこの場所へお移しすることになっていた。古くは「ひもろぎ」の石だったらしいが、やがて社殿を建てるようになった。祇園祭は善光寺町第一の大祭で、長野付近では「御祭礼」といえば祇園祭のことだった。屋台巡行は、江戸時代には六月十三日・十四日、明治以後は七月十三日・十四日におこなわれる習わしだった。境内社に天神社がある。
高市神社 西町 ①祭神 高市(たかいち)大神 ②由緒 西方寺門前にある。「市神社」の碑は古着屋仲間の建てたもの。西町上区が祭祀をおこなっている。西町が繁昌していたころの名残りである。大和国高市郡から分社したといい、嘉永(かえい)二年吉田家から社号を許され、幣帛(へいはく)を受けた。
伊勢社 箱清水大神宮 ①祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ) ②由緒 箱清水の産土神。天明(てんめい)六年(一七八六)善光寺徳寿院から伊勢・八幡・春日三神の神像を寄進され、地蔵堂の前に安置した。のち、八幡は高田へ、春日は赤沼に送り、伊勢社をお祭りした。神告により、裏山の峰に移し、寛政(かんせい)元年(一七八九)から村内四組からそれぞれ当番を決めて祭礼をおこなうようになった。この年から祭礼の記録が残っており、産土神を中心にして村がまとまっていくことがわかる。明治四十三年山神(やまのかみ)社を合併した。
御嶽山神社 箱清水塩沢 ①祭神 国常立命(くにのとこたちのみこと)・大巳貴命(おおなむちのみこと)・少名彦命(すくなひこなのみこと) ②由緒 往生地(おうじょうじ)村御嶽行者(おんたけぎょうじゃ)が文政(ぶんせい)年間(一八一八~三〇)建立、村方が管理し、運営は天神宮町竜樹(りゅうじゅ)院へ委託していた。その後講中が世話をして現在にいたる。
三峰神社 箱清水御幸(みゆき)町 ①祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと) ②由緒 長野には明治二十四年五月・六月とつづけて大火があっだので、城山町(御幸(みゆき)町)は、火難除けのため三峰(みつみね)神社を勧請(かんじょう)することにし、二十六年九月に代参を参拝させ、一年宛御引換えの御札を受けた。はじめ代参入半田善作邸内に安置、あちこちに移ったのち、大正九年(一九二〇)、御本尊仮安置所の現在地に移り、石祠(いしほこら)を造って安置した(箱清水郷土誌)。昭和三十二年(一九五七)社務所新築、御幸町公民館を兼ねる。
伊勢社 東之門町 ①祭神 天照大御神 ②由緒 長野付近は、戦国時代以前から伊勢御師麻生口(おしあおぐち)六太夫(内宮権禰宜(ごんのねぎ)宇治家)の檀家だった。宇治家は元禄(げんろく)十五年(一七〇二)この地を購入して御旅屋(たや)(御師の出張所)を建て、皇大神宮を祭った。この家からは著名な国学者荒木田(あらきだ)(宇治家の本姓)久老(ひさおゆ)・久守らが出ている。明治後は東之門町の産土神となる。秋祭は十月十六日で、これは市内の秋祭の最後になる。
古録稲荷神社 岩石(がんぜき)町 ①祭神 宇加御魂命(うかのみたまのみこと) ②由緒 岩石町の産土神、裏岩石、武井神社の北にある。岩石町は火災など災害が多かったので、勧請した。明治二十七年(一八九四)社殿改修、昭和八年、社殿・鳥居・玉垣などを改築・造営した。
西宮(にしのみや)神社 岩石町 ①祭神 事代主(ことしろぬし)大神・蛭子(えびす)神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと) ②由緒もと武井神社の北、武井小路にあり武井えびすと呼ばれていた。下諏訪町武居に武井えびす社があり、諏訪社よりも古い地主の神ともいわれる。当社も武井神社鎮座とともに祭られた古社であろう。寛文(かんぶん)三年(一六六三)盛大に祭典をおこない、文化(ぶんか)十一年(一八一四)倉稲魂命を合祀(ごうし)。神主丸山氏は若槻山千寺(さんせんじ)出身といい、明治十七年太々御神楽(だいだいおかぐら)講を組織し、大阪の西宮本社から西宮講社信濃国社用係、信濃北部取締を命ぜられている。大正六年ごろ岩石町と横町の角の現在地に移転した。十一月十九日の宵えびすは参拝者が多く、多数の縁起物の露店が出る。また二十日(現在は二十三日)には花火があげられ長野の名物になっている。長野付近では近世末から花火が盛んになってきたが、明治三十二年のえびす講から客寄せの意味を含めて大々的におこなわれるようになった。
諏訪神社 上千歳町 ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと) ②由緒 もと問御所(といごしょ)村の地域で、老けやきと藤の景勝地として知られ、「藤の森のお宮」として知られていた。長野大通りの開通により境内が狭くなった。問御所町・上千歳町で祭祀をしている。
秋葉神社 権堂町 ①祭神 軻遇突智(かぐつち)神。 ②由緒 はじめ往生院境内にあったが、弘化(こうか)四年(一八四七)大地震で焼失。安政(あんせい)二年(一八五五)遠江国秋葉山から神像を勧請し、裏権堂通り(権堂アーケード通りと千歳町通り交差点付近)に移り、慶応二年(一八六六)現本殿が完成した。作者は妻科の宮大工池田(立川)文四郎らしい。明治二十七年社地が道路にかかることとなり、権堂町は社地約四〇〇坪(約一三〇〇平方メートル)を売って現在地(鶴賀腰巻)に一〇〇〇坪(三三〇〇平方メートル)の土地を求めて移転した。拝殿は明治三十年にできた。鎌倉宮(かまくらぐう)(祭神護良(もりよし)親王)の拝殿にならい、彫刻のない簡素、森厳な社殿である。境内には料理人の祖神を祭る四条霊社(明治三十九年創建)がある。
昭和五十二年(一九七七)、イトーヨーカ堂に境内の一部を貸与、その一部は権堂広場と名づけられ、市民のいこいの場となった。節分の豆まきも有名である。
金刀毘羅神社 権堂町 ①祭神 金山彦大神 ②由緒 権堂と問御所(といごしょ)の境中沢堰左岸にある。境内の「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」の碑に安政四年(一八五七)の銘がある。商売繁昌の神として参詣者が多かった。一時秋葉神社に合祀(ごうし)されたが、神の怒りがあったので、昭和六年、現在地へかえられた。やはり秋葉社境内に移されていた金毘羅大権現石碑、聖徳太子碑、内藤氏(難解知法居士)筆塚も昭和四十四年に境内へかえった。社前の道をコンピラ通りという。
田面(たづら)稲荷社 田町 ①祭神 倉稲魂神 ②由緒 裏権堂通りの北のはずれ、鐘鋳(かない)川の端にある。江戸時代の地図には陣屋稲荷とあり、権堂には一時尾張藩分家の陣屋が置かれ、その陣屋に勧請された稲荷社だろう。水茶屋の女や芸妓・娼妓の信仰を集めていた。大正十四年(一九二五)、屋根を葺(ふ)きかえ、玉垣・社標を設けた。
竹山稲荷神社 西鶴賀町 ①祭神 保食(うけもち)命 ②由緒 大正十一年、鶴賀新地から分離した西鶴賀町は独自の神社として松代竹山稲荷の分霊を奉じ、社殿を造営した。
菊屋稲荷社 緑町 市役所南西隣 ①祭神 稲倉魂命ほか三柱 ②由緒 問御所(といごしょ)町の酒屋菊屋(山崎氏)の稲荷だった。明治後荒廃していたが、大正十四年に信者が日之出講を組織し、それ以後、毎月一日、祭事がおこなわれている。裾花河畔に温泉開削をしていた某氏が、資金繰りを当社に祈った帰途、二重回しのポケットから全盛時代に入れ忘れた百円札を発見、以後日之出講の中心人物の一人となったという。
三神社 東鶴賀町 ①祭神 健御名方命 相殿 稲荷大神・金刀毘羅大神 ②由緒 東鶴賀町(もと鶴賀新地)の産土神(うぶすながみ)。鶴賀新地は明治十一年(一八七八)に開かれ、明治四十二年に鶴賀新地車と同西とに分かれた。昭和二十年(一九四五)法人登記のとき、諏訪社・稲荷社・金刀毘羅社の三社を統合、三神社と改称した。
大国主神社 南県町 ①祭神 大国主大神 ②由緒 現県庁付近から平柴にかけての地域を大黒といった。平柴守護所の要害は大黒山にあった。ここに近い後町は、鎌倉時代に信濃国庁(または支庁)のあったところで、この大国主神社はあるいは国庁関係の神社か。もと安茂里(あもり)から後町へ通じる道端にあったが、昭和通りが開通したとき、道の南側に移され、南県町の産土神となった。善光寺七福神の一つ。
秋葉神社 西後町 ①祭神 火産霊神(軻遇突智(かぐつち)神) ②由緒 もと北面堂といい、十念寺五世単了以心が宝永(ほうえい)二年(一七〇五)に勧請した。弘化大地震で破損したので、諏訪の宮大工二代目立川和四郎(富昌)に依頼して再建した。作料四五両、扶持米二〇俵、嘉永(かえい)四年(一八五一)九月着工、六年八月落成。正面額の上に富昌の得意とした粟(あわ)に鶉(うずら)の彫刻があり、また、向拝の木鼻の振り向き獅子もすぐれている。富昌の弟子池田文四郎(妻科)も協力した。