二 寺院

49 ~ 71

 長野はもともと善光寺の門前町として発達した町である。しかし現在では、善光寺・大勧進(だいかんじん)・大本願(だいほんがん)・院坊(いんぼう)(三九)はそれぞれ独立の寺である。これらの寺はそれぞれ由緒があり、ことに善光寺には長い歴史があるが、ここでは、善光寺・大勧進・大本願・山内院坊について簡単に述べるにとどめた。

 旧市内の寺院は、善光寺三寺といわれた寛慶寺・西方寺・康楽寺について述べ、以下はおおむね地区順とした。

 善光寺 単立 元善町 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)(善光寺式一光三尊) ②山号 定額(じょうがく)山 ③由緒 欽明(きんめい)天皇十三年(五五〇)ごろ百済(くだら)国から阿弥陀三尊が渡って来た。天竺(てんじく)の月蓋(がつかい)長者が釈尊の教えに従い、鋳奉った仏像である。推古(すいこ)天皇十年(六〇二)仏の託宣により、信濃水内郡へお送りしたという。この縁起は、平安時代の末ごろにはできていた話で、仏を信濃へお連れしたのは、秦巨勢(はたのこせ)大夫ともいい、若麻績東人(わかおみあずまんど)または本田善光(よしみつ)ともいう。いずれも帰化人系らしい人名である。


写真20 善光寺本堂付近

 善光寺境内や若槻(わかつき)から古瓦が出土する。昭和五十六年(一九八一)、若槻上野地区でおこなわれた発掘調査のとき出土した軒丸瓦と軒平瓦は、九世紀後半のものと推定された。九世紀の善光寺に瓦葺(ふ)きの建物があったことは確かだが、それ以上のことはわからない。古代の地方寺院は、たいてい国造(くにのみやつこ)などの豪族によって建立された。水内郡には国造の有力な一族金刺(かなさし)氏がいたから、金刺氏が善光寺を建てたのだろう。

 中世には東国第一の霊場となり、門前町も発達した。戦国時代、川中島の戦いの戦場になり、一時荒廃した。慶長(けいちょう)三年(一五九八)北信濃を領していた上杉景勝は会津に移され、善光寺付近は豊臣氏の直轄領となり、秀頼は善光寺に寺領を与え、堂を修理した。

 慶長五年の関ヶ原の戦いで、徳川家康の覇権が確立、家康は善光寺に一〇〇〇石の寺領を与えた。近世初頭は本堂も仮堂だったが、寛文六年(一六六六)に本堂が建てられた。この本堂も粗末だったので、元禄(げんろく)五年(一六九二)から再建の工事が始まった。途中で門前町の火災の類焼でせっかく集めた材木を失うなど曲折もあったが、宝永(ほうえい)四年(一七〇七)ようやく現本堂が完成した。門前町からの類焼を防ぐため、従来の境内を空き地にし、新境内は、北之門町を移転させてその跡へ造った。

 本堂(国宝)は、寛文如来堂を一まわり大きくした建物で、善光寺の大工の設計した図をもとにして、幕府の大棟梁甲良豊前(とうりょうこうらぶぜん)宗賀が補正したものである。入母屋造りの仏殿の前に、入母屋造り、妻入りの礼堂をつないだ撞木(しゅもく)造りといわれる様式である。梁間(はりま)(間口)二三・九メートル、奥行五三・七メートルと縦長であり、参詣者のための場所が広くとってあるのが特色である。参詣者が大勢おこもりする習慣から。このような様式ができたのだろう。裳階(もこし)がついているので屋根の面積がひじょうに広い。このような様式は室町時代にはだいたいできていた。高さは二五・八メートル、平面積一四二八平方メートル(四三二坪)。近世の建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大建築で、屋根の広さは日本一である(三五二八平方メートル、約一〇七〇坪)。造営費は約二万五千両、そのすべてを回国開帳による収入で賄った。屋根は栃葺(とちぶき)(厚い板葺)だったが、昭和四年に檜皮葺(ひわだぶき)に替えられた。平成元年(一九八九)、昭和大修理が完成、屋根も全部葺き替えられた。

 山門は寛延(かんえん)三年(一七五〇)に、経蔵は宝暦(ほうれき)九年(一七五九)に完成した。やはり出開帳の収入で賄った。弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺大地震で、門前町はほとんど全焼の大被害を受けたが、本堂・山門・経蔵は難を免れた。


写真21 山門(重要文化財)


写真22 経蔵(重要文化財)

 参詣者の数は正確にはわからないが、中衆正信坊の宿泊者は嘉永(かえい)元年(一八四八)から明治四年(一八七一)までに七四〇一人、年平均三一〇人だった。また、善光寺宿の止宿人は、明治十七年七月から一年間に約五十七万人だった(ふつうの旅人を含む。)。昭和初年は不況で参詣者が減少したが、戦後は急増し、年間、六、七百万人となった。ことに開帳の年は多く、平成三年には年間約千五十四万人、平成九年の開帳には五六日間で五一五万人以上に達した。今後は開帳のある年はもちろん、平年でも年間一千万人近くなると予想される。

 善光寺大勧進 天台宗 元善町 ①本尊 善光寺如来(ぜんこうじにょうらい)(伝聖徳太子作) ③由緒 天台宗大本山、近世には住職は善光寺別当と称し、善光寺領の事実上の領主だった。寺領の政治は主に大勧進の役人(寺侍)によっておこなわれた。大勧進代官は主に今井磯右衛門家が、手代(収税係)は主に中野治兵衛家かっとめた。役所という統治機関は大勧進に置かれていたが、取調べなどの白州(しらす)は今井家邸内にあった。幕府では、はじめ大勧進・大本願両寺が協力して造営などをおこなうようにと指示していたが、しだいに大勧進の力が強くなり、大本願は不服だった。近世初期は真言宗だったが寛永(かんえい)二十年(一六四三)天台宗となり、東叡山寛永寺の支配を受けるようになった。慶運は現本堂造営の大事業を完成した。等順は天明飢饉(ききん)前後二〇年間在職、融通念仏血脈譜(けちみゃくふ)を約一八〇万人に授け、各地に名号碑を建立、寛政(かんせい)元年(一七八九)表門を建てた。大工は初代立川和四郎(富棟)である。行在(あんざい)所(奥書院)も寛政十一年同人作。本堂万善堂は明治二十七年(一八九四)再建の大建築である。位牌堂・護摩堂は昭和五十九年(一九八四)の改築。位牌堂には武田信玄・上杉謙信の位牌をはじめ、各地の信者の位牌を安置する。護摩堂には伝慈覚大師作の不動明王を安置する。現在の住職は石塚慈恍大僧正である。

 宝物には重要文化財の「紙本墨書源氏物語事書(ことがき)」、同「善光寺造営図(九図)享禄四年四月」、重要美術品「五鈷杵(ごこしょ)」、県宝「絹本著色釈迦三尊像」(鎌倉後期)などがある。


写真23 大勧進

 大本山善光寺大本願 浄土宗 元善町 ①本尊 善光寺如来 ③由緒 浄土宗本山、伊勢の慶光院、熱田神宮寺誓願寺各住職とともに「日本三上人」の一人と称せられた。開山は蘇我大臣の女という。百七世(三七世ともいう)鏡空は永禄(えいろく)二年(一五五九)甲府に移り、甲斐善光寺開山となった。百九代智慶は尾張甚目寺釈迦院の出身で、本尊の上洛、信濃還座に供奉(ぐぶ)し、大本願中興開山になった。また、勅許を得て善光寺上人となった。慶長(けいちょう)六年(一六〇一)江戸谷中に善光寺を建てた。この善光寺はのち青山に移り、歴代上人は主に青山に住んでいた。

 百三代智善のとき、大坂に和光寺を建て、青山善光寺・和光寺・越後居多浜(こたはま)善光寺がいずれも大本願の兼帯所となって、居多浜からは毎年塩年貢が納められていた。幕末、明治ころの百十七世誓円は、伏見宮家の王女で、大本願の復興につとめ、全国を巡錫(じゅんしゃく)、布教に挺身した。現在の住職は鷹司誓玉上人である。

 大本願は弘化(こうか)四年(一八四七)、明治二十四年(一八九一)に全焼、昭和五十四年(一九七九)にも一部を焼失した。本堂本誓殿は明治三十三年再建されたが、平成八年(一九九六)再改築された。

 内仏殿は大正三年の再建で、歴代上人護持の善光寺仏を本尊とする。古文書・宝物を多く所蔵し、県宝阿弥陀聖衆来迎図(鎌倉後期)、将軍家茂(いえもち)室和宮遺品等がある。また、生母柳原二位局から寄進された大正天皇御幼少の像が光明閣(内仏殿)に安置されている。


写真24 大本願(明治36年撮影)

 寺中 寺内の院坊は、近世には衆徒(天台宗)二一院、中衆(浄土宗)一五坊、妻戸(つまど)(はじめ時宗、貞享(じょうきょう)二年天台宗に改宗)一〇坊、計四六あり、いずれも宿坊を営んでいた。全国を郡別に各院坊に割り当ててあり、それを持郡といった。院坊は明治初年に多少減少し、衆徒二〇院、中衆一四坊、妻戸五院(昭和二十九年、坊を院と改称)、計三九となった。

 現在は天台宗二五院、浄土宗一四坊、計三九院坊である。その配置は図4のとおりである。


図4 善光寺境内略図

 天台宗二五院は、つぎのとおりである(順序不同)。

 宝林院(ほうりん) ①本尊 阿弥陀三尊 ③由緒 もと、常念仏堂だった。『応安縁起』によると常念仏堂は、平政子の建立であるという。江戸時代以前は、いまの城山小学校の地にあった。

 薬王(やくおう)院 ①本尊 薬王菩薩 ③由緒 本尊のほか、阿弥陀如来座像、伝慈覚大師作不動明王、伝智証大師作不動三尊立像がある。近くに弥栄神社があり、そこに祭られている天神像は堀長門守作で、もと当院に祭られていたものである。

 吉祥院 ①本尊 弘法大師 ③由緒 もと弘法堂ともいった。弘法大師が当院に百ヵ日滞留し、そのあいだに自ら彫刻したのが本尊であると伝える。

 福生院 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 本尊は一三代将軍家定の没後、その供養のために奉納されたもの。もとは善光(よしみつ)堂と呼ばれ、三卿(善光・弥生・善佐)像が安置されている。城山の福生稲荷は当院が管理している。

 光明院 ①本尊 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ) ③由緒 浅川ブランド薬師にあった薬師像が安置されている。また、大念珠が保存されている。岐阜長良川に大橋を架けるとき、難工事のため人柱をたてて、ようやく完成した。その供養のため、大橋の杭でこの大念珠が作られ、奉納されたという。

 蓮華院 ①本尊 弁財天女像 ③由緒 本尊はむかし戸隠から寄進されたもの。

 常徳院 ①本尊 不動明王 ③由緒 別称護摩(ごま)堂、むかしは善光寺の天台宗の僧はこの護摩堂で三七日の護摩供養を修したという。当院の玄関は、明治初年飯山藩の家老の家の門を移したもの。

 教授院 ①本尊 三宝荒神像 ③由緒 別称荒神堂。戦後、戦没者の慰霊と供養のため、雲上殿納骨堂脇に万国観音堂を建立した。

 最勝院 ①本尊 角(すま)薬師如来 ③由緒 本尊は石造り薬師如来で、須磨の浦の海中から出現されたと伝え、須磨の薬師といわれる。

 常智院 ①本尊 大日如来(胎蔵・金剛両界二体)、別称大日堂 ③由緒 内仏殿である慈徳殿には聖観音が安置されている。明治九年(一八七六)、長野学校第二分教室が置かれた。当地学校教育草創の地でもある。

 徳寿院 ①本尊 文珠菩薩 ③由緒 本尊伝運慶作木造立像。このほか不動明王(伝空海作)、江の島弁財天などが安置されている。

 尊勝院 ①本尊 当麻曼荼羅(たいままんだら)、別称曼荼羅堂 ③由緒 本尊当麻曼荼羅は九条道家(一一九三~一二五二)が寄進したものと伝える。曼荼羅堂の起源は古く、『応安縁起』にも曼荼羅堂のことが見える。

 本覚院 ①本尊 善光寺如来 ③由緒 別称本善堂。本田善光が最初に如来堂を建てた地という。入り囗北側に阿闍梨(あじゃり)池がある。法然の師皇円阿闍梨は遠江桜ガ池の竜になったが、正月十八日の夜、遠江から地下を通ってこの池にあらわれ、如来を拝するという。善光寺七池の一つ。

 玉照院 ①本尊 聖観音菩薩 ③由緒 本尊は、信濃百番観音の打ち止めの観音、北条泰時建立の観音堂の名残りだという。六角銅製釣灯籠(つりとうろう)は慶長十一年(一六〇六)大久保長安が戸隠大明神に寄進したもの。明治八年に当院に入った。市指定文化財。

 世尊院 ①本尊 釈迦涅槃(ねはん)像(重文)③由緒 通称「釈迦堂」。本尊は一・六六メートル、銅造で越後居多浜から出現されたと伝える。善光寺出開帳には釈迦涅槃像が同行するのが恒例だった。本尊の側の毘沙門天(びしゃもんてん)は藤原時代の作で市指定文化財、善光寺七福神の一体。木造善光寺如来(室町)も市指定文化財。

 長養院 ①本尊 聖観音菩薩 ③由緒 善光寺山内院坊は明治二十四年(一八九一)の大火で古文書を失った寺が多いが、当院は豊富な古文書・記録を有し、天保(てんぽう)十四年(一八四三)下総香取郡講加入帳・文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)上州邑楽(おうら)郡勧進帳等が『県史近世』⑦に収められている。

 常住院 ①本尊 大日如来画像 ③由緒 もと本尊は善光寺如来であったという。明治二十四年の大火でほとんどの宝物・文書を焼失、建物はその後復興した。

 威徳院 ①本尊 普賢菩薩 ③由緒 明治末から大正にかけての住職林順亮(俳号野木)は、一茶研究者・書家として知られ、また、一茶遺稿を多数所蔵していた。

 良性院 ①本尊 准胝(じゅんでい)観世音菩薩 ③由緒 本尊はかつて本寺だった上野一山中から迎えたもの。また秩父三十四所観音も安置されている。

 円乗院 ①本尊 五智如来 ③由緒 別称五智堂。本尊のほか観音その他仏像も多く安置されている。

 甚妙院 ①本尊 延命地蔵菩薩 ③由緒 中興聖阿弥

 常行院 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 本尊のほか、厨子(ずし)内に弁財天と十五童子が安置されている。弁財天は上野不忍池(しのばずのいけ)弁財天の分身。

 寿量院 ①本尊 日月不動尊 ③由緒 応永(おうえい)七年(一四〇〇)大塔(おおとう)合戦のとき、守護小笠原長秀の将常葉入道父子三人が戦死した。入道の妻は戦場を訪ね、その遺骸をさがし当て、当院の住職とともにその法要を営んだという。

 善行院 ①本尊 聖観音菩薩 ③由緒 本尊は聖徳太子の侍僧道深房の作という。当院の証阿弥陀仏は、四八体仏を鋳造、全国に経帷子(きょうかたびら)を配布し、信徒の遺骨、遺髪を持ち帰り、塔婆を建てて供養したという。

 玄証院 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 諏訪から移ったと伝える。明治二十四年の火災で堂塔・古文書・寺宝のいっさいを失い、本尊はその後松代から寄進された。


写真25 院坊通り(元善町西側)

 浄土宗一四坊、中衆は、如来随従衆ともいい、また灯明衆ともいい、古くから妻帯だった。善光寺が武田信玄によって甲府へ移されたとき随行し、そのまま甲斐にとどまった一族もある。近世にはそれぞれ俗姓を有したが、明治初年、若麻績(わかおみ)姓に改姓。一五坊だったが、明治九年行蓮坊が廃絶してつぎの一四坊となった(順序不同)。

 堂照坊 ①本尊 庚申青面金剛 ③由緒 本尊のほか、親鸞影像、笹字名号、聖人肉付の歯などが寺宝になっている。親鸞百日逗留遺跡といわれる。

 堂明坊 ①本尊 弁財天 ③由緒 堂照坊と共に、かつては如来堂の常灯明をつかさどった坊と思われる。

 白蓮坊 ①本尊 八祖大師像 ③由緒 寺宝に恵心感見如来壁板像がある。

 兄部(このこん)坊 ①本尊 延命地蔵菩薩 ③由緒 「兄部(このこうべ)」は「力者の長」という意味の古語で、寺社に付属する座の統率者をいうこともあった。中世善光寺での職掌が坊名として残ったものであろう。

 正智坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 幕府大奥で使用したという百人一首が伝わる。当坊如幻宗知の二男益庵の一女楽は将軍家光に仕えて四代将軍家綱の生母となったという。楽の兄青木利長は増山と改姓して家綱に仕え、二万石の大名になった。

 向仏坊 ①本尊 大日如来 ③由緒 もと善導堂といい、善導大師像を安置していた。参道敷石を寄進した大竹屋平兵衛の墓は当坊墓地にある。

 鏡善坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 もと十王堂であり、小野篁(たかむら)作と伝える閻魔(えんま)王を安置していたが、弘化(こうか)四年の大地震で焼失した。「応安縁起」にいう浄定上人建立の閻魔堂の名残りであるという。

 浄願坊 ①本尊 聖徳太子立像 ③由緒 往時、太子堂と称されていた。聖徳太子御影堂のことは「応安縁起」にも見えている。

 野村坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 「野村」という仏教読みでない坊名は、古代の名残りであろう。

 淵之坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 もと縁起堂といった。代々善光寺縁起に関する職務をつかさどっており、朝廷へ参内して善光寺縁起を進講したこともあるという。鎌倉時代の作といわれる善光寺如来縁起の大幅三幅対がある。

 常円坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 仏殿に飯綱大権現を安置し、その御姿を配布している。明治維新のとき、神仏分離令で一時住職居間に移したが、霊告により再び仏殿に安置した。

 正信坊 ①本尊 円光大師像 ③由緒 法然堂。本尊は法然の弟子良忠が奉納したものという。一光三尊像は法然御持仏という。当院の前の通りを法然堂町といった。弘化(こうか)四年から明治四年(一八七一)までの宿帳が残っており、『市誌研究ながの』1・2号に復刻されている。


写真26 院坊通り(法然堂町)

 徳行坊 ①本尊 綱引阿弥陀如来 ③由緒 本尊は熊谷直実の娘玉鶴姫が、父を訪れて善光寺参詣に来たとき、犀川を渡る舟の綱を引かれた阿弥陀仏の御姿という。

 随行坊 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 上野寛永寺の公弁法親王が赤穂浪士の冥福を祈って書いたという六字名号(芝増上寺崇伝寄進)、などの寺宝がある。


 つぎに旧町内の寺院について述べておこう。

 寛慶寺 浄土宗 東之門町善光寺境内の東 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 寿福山無量院 ③由緒 室町時代善光寺別当だった栗田氏の建立。治承(じしょう)四年(一一八〇)栗田に建立されたという。永正(えいしょう)年間(一五〇四~二一)寛安が栗田氏の墓のあった現地に移し、父の名をとって寛慶寺と名付けた。天正(てんしょう)十一年(一五八三)松代西念寺から洞誉春虎を招いて天台宗を浄土宗に改めた。天正十八年小田原役で関東が乱れたとき、春虎の学友幌随竟白道(ばんずいいびゃくどう)は春虎を頼り、弟子を連れて善光寺で百日の修行をした。本尊留守の善光寺で寛慶寺がしっかりした地位を占めていたことがうかがえる。

 近世には西方寺・康楽寺とともに三寺と称されて重んじられた。弘化四年の大地震で焼失、本堂は明治十六年に再建された。表門はもと大勧進の門だったが、大勧進別当等順が寛政(かんせい)元年(一七八九)に大勧進門を新築してのち、この門を寛慶寺へ寄付した。弘化大地震に焼けず、明治二十四年(一八九一)の大火でこの門も焼けかかったが、彫刻の獅子が霧を吹いて消し止めたというので、その獅子を霧吹きの獅子という。


写真27 寛慶寺 この門はもと大勧進の門だったもの

 西方寺 浄土宗 西町 ①本尊 四尺の阿弥陀如来、脇侍は跪坐(きざ)の観音・勢至。②山号 安養山 ③由緒 もと権堂往生院の地にあったが、そこが低湿地であったので、永正(えいしょう)元年(一五〇四)現在地に移った。真言宗の寺の跡だった。開山は記主禅師良忠。元和(げんな)元年(一六一五)善光寺本堂焼失のとき、本尊がこの寺に移られ、また、現本堂建立のときも本尊をこの寺に安置した。現在の西方寺本堂の天蓋(てんがい)は、もと善光寺本堂の天蓋だったと伝える。現本堂は天明(てんめい)七年(一七八七)の建立で、弘化四年(一八四七)の大地震にも焼失を免れ、大建築としては善光寺を除く長野町最古の建築である。明治四年(一八七一)六月から七年七月まで三年あまり、長野県庁仮庁舎として使用された。本堂に赤いじゅうたんを敷き、靴のまま執務した。参道右側に祐天(江戸目黒祐天寺開山)の念仏碑、左側に徳本の念仏碑がある。入り囗南側の井戸は無方(なきかた)池といわれ、善光寺七池の一つ。良質の水が出、珍重された。


写真28 西方寺本堂 天明7年の建築で、大建築としては旧町内最古のもの。明治4年、長野県庁として使用された

 康楽寺 真宗西派 東町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 白鳥山報恩院 ③由緒 開基は木曽義仲の軍師海野道広(大夫坊覚明)であるという。道広は親鸞(しんらん)の弟子になり、その長男浄賀が塩崎康楽寺を開き、弟浄宣は東町に庵を開いた。その子西念のとき、広教寺の寺号を与えられた。のち、塩崎康楽寺が東派に属したため、西本願寺から寛文(かんぶん)五年(一六六五)康楽寺の寺号を与えられた(塩崎康楽寺はのち西派に復したので、信濃には西派の康楽寺が二寺存在することになった)。近世には善光寺三寺の一つとして重んじられた。宝暦(ほうれき)十年(一七六〇)全焼、再建されたが弘化四年の地震で焼失、庫裏(くり)は嘉永(かえい)元年(一八四八)、本堂は明治十九年に再建された。太子堂と墓地は城山の東、三輪八丁目にある。


写真29 康楽寺

 静松寺(じょうしょうじ) 浄土宗 茂菅横棚(よこだな) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 頼朝(らいちょう)山③由緒 六十六部頼朝が、善光寺の近くで往生することを願い、「松の静かな所」に庵を結んで没した。土地の人がその持仏と笈(おい)を笈仏堂(おいぶつどう)に安置した。源頼朝はこの頼朝坊の生まれかわりで、寺領などを寄付した。はじめ今の場所の東方、境沢の字古屋敷にあり、天台宗だった。葛山(かつらやま)城主落合氏の菩提寺で、弘治(こうじ)三年(一五五七)葛山落城のとき焼亡、天正(てんしょう)十五年(一五八七)寛慶寺の洞誉春虎が浄土宗として再興した。弘化(こうか)四年善光寺大地震には難をまぬがれたが、文久(ぶんきゅう)年間(一八六一~六四)に焼失、再建された。旧戸隠街道に面し、明治初期まで交通の要地だった。境内に笈仏堂があり、笈仏の戸帳などは、三代将軍秀忠の室本理院(ほんりいん)(鷹司孝子)の寄進である(『長野』 一五七号)。


写真30 静松寺 茂菅横棚、葛山の中腹にあり、近世には善光寺町へ出る道が寺の前を通っていた

 西光寺 浄土宗 西長野 ①本尊 阿弥陀如来(元薬師如来) ②山号 清涼山薬師院 ③由緒 建暦(けんりゃく)二年(一二一二)山城の寂蓮(じゃくれん)法師が一寸八分の薬師如来を背負って来て、本尊として寺を建てたという。この薬師如来は、旭観音、不動滝の不動尊とともに旭山十三仏の一体という。四九世欣誉単求は本堂を再建、また、正徳(しょうとく)三年(一七一三)善光寺本堂―山門間の敷石(市史跡)を寄進した。寺の入り口右側の清水は善光寺七清水の一つの夏目清水(九重清水・光明水)である。

 法蓮寺 真宗西派 西長野 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 鈴木山 ③由緒 開基は天台宗の僧だった法蓮坊了音(鈴木氏)。親鸞の戸隠参詣のおり帰依、東町広教寺(康楽寺)の塔頭(たっちゅう)となった。明治十四年(一八八一)、一一世法城のとき、現在地に移った。

 往生寺 浄土宗 往生地 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 安楽山菩提院 ③由緒 鎌倉初期の創建で開山は寂照坊等阿、世に苅萱道心(かるかやどうしん)という。筑前の国(福岡県)の産、加藤左衛門尉重氏が世の無常を感じて出家、比叡山・黒谷・高野山を経て善光寺にいたり、ここで建保(けんぽう)二年(一二一四)八月二十四日寂。その子石堂丸(いしどうまる)も信生坊道念と称し、当山二世となる。戦国時代に廃寺同然となったが、寛永年間(一六二四~四四)越後国高田善導寺の弟子久伝道心により再興。さらに享保(きょうほう)年間(一七一六~三六)三一世融蓮社斎誉理円か中興。弘化(こうか)四年(一八四七)八月十八日、連日の大雨で裏山が崩壊し本堂が壊滅した。翌嘉永(かえい)元年(一八四八)八月復興し、さらに明治六年(一八七三)に現在地に再建。

 本堂は明治四十二年に改築、現在にいたる。改築前は寄棟造りだったが現在は入母屋造り。最初の寺地は「かるかや平」と呼ばれている。その後、現寺域の裏にさがり、さらに現在地へ移ったという。境内に苅萱塚・鏡ヶ池・柳清水・稲荷社などがある。


写真31 往生寺本堂

 聞光(もんこう)寺 真宗西派 箱清水(はこしみず) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 湯福(ゆぶく)山 ③由緒 開基は天台僧栄瑞(えいずい)(木曽義仲の臣武井氏)。親鸞の戸隠参詣のとき帰依、武井(三輪田町)に寺を開いた。寛文(かんぶん)五年(一六六五)東町広教寺が康楽寺の寺号を与えられたとき、その塔頭(たっちゅう)となった。明治十八年、湯福神社の東隣の現在地に移転した。

 霊山寺 真言宗 箱清水(はこしみず)花岡平 ①本尊 大日如来 ③由緒 もと飯綱山の中腹(現在信濃町に編入)にあったが、江戸時代には長沼に移り、寺領二六石を有する由緒ある寺であった。大正九年(一九二〇)、原田義吽がその寺号を移して花岡平に新しく寺を建てた。本尊のほかに、長沼から移した文珠菩薩を安置する。墓地には渡辺敏(はやし)・栗岩英治など郷土の先覚者の墓があり、また境内に川中島合戦首塚、たくさんの五輪塔などがある。寺地付近を五輪平ともいう。近世までリョウゼン寺と称していた。

 往生院 浄土宗 権堂町 ①本尊 円光大師(法然)像②山号 蓮池山 ③由緒 西方寺末。西方寺の旧地といい、開山は記主(きしゅ)禅師。善光寺本堂が寛永(かんえい)十九年(一六四二)五月焼失したとき、一時善光寺本尊を安置したと伝える。境内社の宇賀弁財天は、この地にあった蓮池に祭られたものといわれる。また、境内に万治(まんじ)元年(一六五八)、元禄(げんろく)七年(一六九四)の庚申塔(いずれも寛政十二年(一八〇〇)再建)、百万遍供養塔、漫画家安本亮一(一九〇一~五〇)の碑などがある。


写真32 往生院

 明行(みょうぎょう)寺 真宗東派 権堂町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 観勝山 ③由緒 天正(てんしょう)元年(一五七三)秀応開基。裏権堂にあり、表権堂から入る道を明行寺大門通りといった。弘化(こうか)四年(一八四七)、明治初年等に火災にあい、現本堂は明治十六年(一八八三)の再建。境内に芝居、軽業等の小屋が設けられたこともある。


写真33 明行寺

 普済(ふさい)寺 曹洞宗 田町腰巻 ①本尊 釈迦如来 ②山号 平等山。③由緒 中条村臥雲院末。延享(えんきょう)三年(一七四六)臥雲院一三世一源物成が開いた。田町通り南側にあったが、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震に全焼、明治四十年、一二世活宗玉禅が現在地に再建した。米子不動尊はもとこの寺にあったという。墓地入り囗に「娼妓(しょうぎ)死亡者供養塔」がある。大正十二年、鶴賀新地貸座敷組合が建てた。

 栽松院 曹洞宗 問御所(といごしょ)町 ①本尊 釈迦如来 ②山号 黄梅山③由緒 天文(てんぶん)(一五三二~五五)のころ菊屋山崎七郎右衛門家(三河門徒)の持仏の如意輪観音を祭る島の寮観音堂が建てられた(ここは、南八幡川と栗田堰が分岐して島のようになっている)。会津の僧無徳良悟(寛保二年・一七四二寂)が開山となる。実際は二世松山(山崎氏出身)が開いたもの。寛政(かんせい)十一年(一七九九)全焼、まもなく再建、中興開山は性乗寺(七二会岩草)の一二世玄寧一了、中興開基菊屋。これから往乗寺の末寺となる。現在の本堂は明治三十五年(一九〇二)建立(このときの寄付者額が、本堂内にあり、筆頭は山崎の二〇〇円)。境内に島の天神・尾上出世不動(以上問御所町持)・観音堂の建物があり、また三峰(安政六年)・弁財天・金比羅大神(安政六年三月)、大物主神などの石祠(いしほこら)、子育地蔵(赤地蔵)、聖観音、延命地蔵(甲州屋寄進)、六地蔵などがあり、また、宝暦(ほうれき)五年(一七五五)庚申塔、万延(まんえん)元年(一八六〇)庚申塔、久保田新兵衛建立の庚申塔がある。また、本堂左前に宝暦十年の「奉読誦大乗妙典供養塔」、佐久正安寺一六世大梅法𤩄筆の「尊合蔵塔」(経巻箱等をうめた塔)の碑がある。通称シマンリョウと称し、八月二十三日の地蔵盆の日は参詣者でにぎわう。また、江戸時代は七月二十四日が島の天神の祭だった(『菅江真澄遊覧記』)。

 善松寺 曹洞宗 妻科本郷、妻科神社東に隣接 ①本尊 釈迦如来 ②山号 虫倉山 ③由緒 元禄年間(一六八八~一七〇四)、妻科村の信徒により、虚空蔵堂(こくぞう)として建てられた。「文政(ぶんせい)七年(一八二四)書上げ」に「村持虚空蔵堂、鬼無里村松巌寺支配」と記す。文化二年(一八〇五)松巌寺の隠居寺となり、同寺一一世素巌天如を開山とした。善光寺大地震で崩壊、明治十一年、旧戸隠本坊勘修院(かんじゅいん)(久山家)の客殿を移して本堂とした。境内に大姥(おおおば)大明神・粟島大明神合祀(ごうし)の社がある。

 原立(げんりゅう)寺 日蓮宗 妻科宝塚通り ①本尊 釈迦如来 ②山号 栄文山 ③由緒 もと長沼六地蔵町にあったが、明治三十三年城山に移り、同三十九年現在地に移った。明治四十年、茂菅(もすげ)分教場(もと弁才天庫裏(くり))を一〇〇円で購入して庫裏とした(現在保育園)。境内に願満稲荷がある。本堂裏の墓地に当寺開基岩間左衛門尉(じょう)清正(天和二年没)の墓がある。長沼から移したもの。佐久間象山の先祖といわれる。

 本願寺長野別院 真宗西派 西後町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 もと普門山蓮華院正法寺 ③由緒 若槻城主若槻石見守の子重勝が出家して善光寺衆徒普門山蓮華院正法寺の住職となった。親鸞の善光寺参籠(さんろう)のとき、その弟子となり、諸国遍歴ののち、善光寺正法寺に再住、その子孫明誓は天正(てんしょう)八年(一五八〇)長門町に移り、寛永(かんえい)三年(一六二六)現在地に移った。明治四年(一八七一)本堂を仮用して長野県学校が開設された。長野県における近代学校の始まりであり、七歳から三六歳までの一八〇人が入学した(六年城山に長野学校ができ、廃校)。また明治三十四年四月から一年間、長野商業学校校舎となった。大正十四年(一九二五)本願寺別院となり、昭和四十九年(一九七四)、新本堂落成、境内続きに寺内の定専寺・善立(ぜんりゅう)寺がある。善光寺七院の一つという。

 十念寺 浄土宗 西後町 ①本尊 木造阿弥陀如来立像、来迎形、享保十二年(一七二七)作 ②山号紫雲山頼朝(らいちょう)院 ③由緒 もと時宗一向派。一向派の柤一向俊聖の高弟が南北朝時代初期ごろ開き、同派の養阿が近くに「善光寺療病院」を開いた。応永(おうえい)七年(一四〇〇)信濃守護小笠原長秀が反守護軍(大文字一揆(だいもんじいっき))と戦ったとき、十念寺の聖(ひじり)は戦死者を埋葬し供養した。このように十念寺の時衆は社会事業・慈善事業をおこなった。墓地には応永十五年の十阿のための板碑(いたび)がある。戦国時代に廃絶、寛永年中(一六二四~四四)、寛慶寺二世円誉秀甫(しゅうほ)が中興した。源頼朝が善光寺に参詣したとき、紫雲三尊形があらわれ、空中から十念を授けられたので十念寺を建て、紫雲山頼朝院と号したという(元禄縁起)。

 境内に大仏堂・観音堂がある。大仏は美作(みまさか)国(岡山県)誕生寺正道が願主となり、寛政(かんせい)十一年(一七九九)造立、仏師村上理兵衛。丈六の坐像で坐高二七〇センチメートル。平成七年(一九九五)解体修理、同年大仏殿も修築された。大仏と本尊は学術調査を受けた(『長野』一七〇号)。


写真34 十念寺本堂 右は平成8年落成の大仏殿

 西光寺 浄土宗 北石堂町 ①本尊 苅萱(かるかや)父子地蔵尊(市文化財) ②山号 苅萱山寂照院 ③由緒 九州の大名加藤左衛門尉重氏が法然上人の門人となって出家し、高野山へ上った。子の石童丸が尋ねてきたが親子の名乗りをせず、信州善光寺へ来て、この地に草庵を開き、日々如来堂へ参詣し、往生地(おうじょうじ)で往生した。石童丸は父の死後、この寺に来て、ここに入寂した(以上縁起)。江戸時代には、何度も出開帳をした。現本堂は、昭和十二年の再建である。

 境内にある苅萱上人の墓といわれる五層塔は鎌倉時代の古塔である。その右の九重石塔は四メートルあまりの大きなもので、寛文(かんぶん)四年(一六六四)にこの付近の人びとが建てたという。

 芭蕉句碑「雲ちるや穂屋のすゝきの刈り残し」(寛保三年)は芭蕉句碑としては県内最古である。

 一茶句碑「花の世は仏の身さへおや子哉」は昭和十二年、一茶の筆跡で建立された。また石幢(せきどう)型六地蔵などがある。

 苅萱石童丸銅像は大正中期ごろにできたが、戦時中昭和十九年献納、現在のものは昭和三十六年に再興した。また、境内入り囗に旭山の大蛇の墓がある。天明(てんめい)六年(一七八六)近所の若松中兵衛が旭山で大木と間違えて大蛇を殺し、それを見世物にして大蛇のたたりで一家が死に絶えた。そのため大蛇の墓をつくり、霊をなぐさめた。大蛇の戒名は蓄転善達、小蛇は得円妙了、こちらはまだ死んでいないので朱を入れてあるという。

 明治六、七年ごろ、長野石油会社の精錬所として境内が使用された。墓地には長野石油会社員の墓がある。


写真35 かるかや山西光寺の苅萱・石童丸像