聖の集まる霊地-平安時代の善光寺

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東大寺を再興したことで有名な重源(ちょうげん)(一一二一~一二〇六)は、壮年時代高野聖(こうやひじり)として各地を遊行(ゆぎょう)し、善光寺へは二回参詣し、一度は一三日間参籠(さんろう)して百万遍の念仏を称し終え、二度目のときは七日七夜、不断念仏を勤めた。

 前大僧正・三井(みい)寺長吏覚忠(一一一九~七七)も善光寺に参詣した。覚忠が三井寺長吏を辞した仁安(にんあん)三年(一一六八)ころである。覚忠は摂政九条兼実(かねざね)の弟で、身分が高く、また西国三十三番札所を順拝した篤信者であった。

 重源・覚忠と同じころ、比叡(ひえい)山千手院の蔵円は善光寺に下向して居住し、ここで往生した。この人は天性武勇で悪業を重ね、死んで地獄に落ちそうになったが、地蔵菩薩(ぼさつ)に救われ、蘇生して善光寺に入ったのである(『地蔵菩薩霊験記』)。

 平安時代末には、善光寺はすでに東国一の霊所になっており、遠くからの参詣者も多く、また他国から移り住むものもあった。なかには前身が悪僧だった人もいた。これは、鎌倉時代に善光寺が悪党に苦しめられたことと考えあわせて注目すべきことである。平安時代末には、門前に多少の集落はできていたのだろう。

 市村荘、天台山領小市なども平安後期には成立しており、善光寺町入り囗の渡し場には、定期市が開かれていたらしい。