「後庁」の所在地として-鎌倉時代

72 ~ 73

鎌倉時代の善光寺門前町の発達の大きな要素になったのは、後庁(ごちょう)の設置である。後庁というのは、国府の支庁という意味だが、安貞(あんてい)元年(一二二七)信濃の国務を請け負った藤原定家の使者が信濃に視察に来たときは、信濃統治の実際の責任者眼代(がんだい)が後庁におり、在庁官人も詰めていたから、このころ、実質的な信濃国府は後庁にあったらしい。初代信濃守護の比企能員(ひきよしかず)は守護と目代(もくだい)(国司の代官)を兼ねていた。それで善光寺の後庁は国府と守護所を兼ねており、信濃の政治の中心となっていた。

 善光寺は治承(じしょう)三年(一一七九)に焼け、頼朝は信濃に所領をもつ武士全員に勧進(かんじん)上人に協力して善光寺再興につとめるよう命令し、建久(けんきゅう)二年(一一九一)に再建が完了した。頼朝は同八年善光寺に参詣した。これはすべて比企能員の守護在任中で、後庁が設置されたのもこのころらしい。

 善光寺町は、信濃で最初にできた町だった。そのため、悪党がはびこったり、争いがあったり、都市的なごたごたがよく起こった。善光寺はそれを取り締まる武力をもたなかった。そこで、乱暴狼藉するものを鎮圧し、住民の生活を守るため、地頭を置くよう幕府に申請した。幕府で適任者をさがしたところ、長沼宗政(一一六二~一二四〇)が申し出た。「私は先世の罪人です。当寺の生身(しょうじん)如来の地頭になって、御縁を結びたい」この宗政の気持ちは本当だったろう。宗政は下野(しもつけ)国(栃木県)長沼を本貫(ほんがん)とする有力御家人で、善光寺地頭を十数年つとめたが、承元(じょうげん)四年(一二一〇)余計なことにまで口出しするという理由で、寺側の申請で地頭をやめさせられた。宗政はのち摂津(せっつ)守護・淡路(あわじ)守護などを歴任している大物だから、善光寺に住んで実際に勤務したのはその家臣であろう。領民の取り締まりにあたって寺当局とのあいたでいざこざを起こしたらしい。

 宗政がやめさせられてから数十年たって、また、善光寺辺りの悪党を鎮圧し、寺を警護するため、和田石見(いわみ)入道仏阿・原宮内(くない)左衛門入道西蓮・窪寺左衛門入道光阿・諏訪部(すわべ)左衛門入道定心(じょうしん)の四人が奉行人に任じられた。四人とも善光寺の近くに住む有力御家人で、たぶん在庁官人を兼ねていただろう。ところが、職務以外のことにまで口出しするという理由で寺側が訴訟を起こし、幕府で評議のうえ、四人ともやめさせられてしまった。二回とも、寺側の要請で設けられ、また寺側の要請でやめさせられるという同じようなことの繰り返しである。門前町の人々の取り締まりが寺僧におよぶのをきらったこともあっただろう。