門前町に住む人びと

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善光寺門前町には、僧・仏師・絵師・刀鍛冶など、いろいろな人が住んでいた。鎌倉時代末ころ、浄土宗名越(なごえ)派の月形房明心は南大門に談議所を開いていた。また妙海(みょうかい)(一二九〇~?)は「善光寺妙海」と称して、多くの仏像を彫った。この「善光寺」は「善光寺町」の意味らしい。

 絵師三河坊慶暹(けいせん)は暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)、北佐久郡望月町福王寺の阿弥陀(あみだ)如来の彩色をした。仏師や絵師は一人で住んでいることは少なく、仲間や親方や弟子がいるのがふつうで、善光寺町には寺に必要な職人は一応そろっていただろう。善光寺の堂塔の建立や修理もしばしばで、建久(けんきゅう)二年に本堂などが、嘉禎(かてい)三年(一二三七)に五重塔が完成、寛元(かんげん)四年(一二四六)、建長(けんちょう)五年(一二五三)にも修造完成の供養がおこなわれている。これらの工事には大工はじめ大勢の職人が必要で、その一部は門前に住んでいただろう。


写真36 一遍上人絵伝 永仁6年(1298)一遍の後継者他阿の参詣の場面。僧と尼がそれぞれ二列に並んでいる

 一遍(いっぺん)上人の行状を描いた絵巻物「一遍聖絵(ひじりえ)」が二種類残っている。一種は聖戒本(原本歓喜光寺本)で、これは一遍の十回忌に弟聖戒が編(へん)さんしたもので、芸術的価値も高く、内容も信頼できる。このなかに一遍が文永(ぶんえい)八年(一二七一)に善光寺へ参詣したときの絵がある。寺を描くのが目的だったらしく、境内や参詣人はくわしく描かれているが、門前町はほとんど省略されている。参詣人は武士や尼、被衣(かつぎ)姿の女などが描かれ、ほかに琵琶(びわ)法師主従、善光寺縁起らしい絵を巻いて結びつけた傘をかついでいる絵解き法師なども見える。

 もう一種類は宗俊本で一遍の十三回忌に弟子の宗俊が編さんしたもの、十巻のうち四巻までは一遍の、六巻以下は二祖他阿(たあ)の伝記である(原本清浄光寺本、伝写本が多数ある)。ここには、一遍の後継者他阿真教(しんきょう)が永仁(えいにん)六年(一二九八)、善光寺に参詣するようすが描かれている。本堂は妻入り、屋根は裳階(もこし)付きで、現本堂に近い。本堂前の舞台(妻戸台か)には、二、三百人の僧がこぼれ落ちるばかりに乗り、念仏を唱えて回っている。それを大勢の人びとが見物している。貴人の乗っているらしい牛車も一台見える。本堂の縁には僧兵のような僧たちもいる(口絵)。

 文永(ぶんえい)十一年日蓮が許されて佐渡から信濃を通るとき、善光寺の「念仏者・持斎(じさい)・真言(しんごん)ら」が、「生身の阿弥陀仏の前を、生かしては通さない」と相談したが、日蓮は武士に守られて無事に通った。持斎というのは半僧半俗の聖で時宗僧(時衆)など、真言は山伏や真言律宗の僧などのことらしい。

 しかし、日蓮を押し止めることはできなかったから、善光寺には有力な武装の僧兵などはいなかったのだろう。

 鎌倉時代後半、善光寺念仏堂に四八人の時衆がいた。時衆は僧尼が交じっているので、風紀を乱したりするものがあるので、権別当(ごんのべっとう)(別当は京にいるので、事実上の住職)が時衆を追放してしまった。そして、鎌倉から真言律宗のまじめな僧を呼んで、きびしく戒律を守らせたところ、如来がやつれたお姿で「私はあまり堅いのより、少し柔らかい方が好きなんだよ」という意味の歌をお示しになったので、追放した時衆を呼び返した(『善光寺縁起』)。この話は、時衆が書いたらしいが、善光寺には、寛大に人を受け入れる場所があったのだろう。病人や乞食(こつじき)なども大勢門前に集まり、時宗一向派では、病院を開いていた。