室町時代になると、近世初期の善光寺町に近い形の門前町ができたらしい。室町時代までの文献に出てくる町名は、南大門・西之門・桜小路・後町などである。慶長(けいちょう)六年(一六〇一)に善光寺領が決められたとき、東後町は町並みだけが寺領になった。これは、その時点で、ここにすでに町があったから、町の部分だけを寺領にしたのだろう。向かい側の西後町は正法寺・十念寺などがあって、はかばかしい町並みがなかったため、松代領に入れられたのだろう。
新任守護小笠原長秀が、善光寺で国務をおこなうため、応永(おうえい)七年(一四〇〇)七月に善光寺町へ入ってきたときのようすを『大塔(おおとう)物語』にはつぎのように書いてある。「見物の人びとは、善光寺の南大門から蒼花(すすばな)川の高畠にかけて、足の踏み場もないほどだ。およそ善光寺は三国一の霊場で、生身(しょうじん)阿弥陀の浄土、日本国の津(港)で、門前市をなし、道俗男女、貴賤男女、思い思いに着飾って集まってくる。若武者、児(ちご)、若僧、戸隠の若山伏などが風流に歩いている。また遊女・白拍子(しらびょうし)・夜鷹(たか)なども美しい衣装をつけ、香をたきこめて流し目で男をさそっている。また由ありげな女房が簾(すだれ)ごしに見物している風景もある」。高畠は裾花(すそばな)川の自然堤防で、今も小字地名として残っている。今の北石堂町にあたり、西光寺(苅萱堂)から善光寺までの、ほぼ一・五キロメートルの直線の参詣道は、見物人でいっぱいだったというわけである。丹波島・市村から善光寺へのほぼ直線の道(旧北国(ほっこく)街道)は平安時代にはもうできていたらしい。
長秀が善光寺でおこなった政治に、国人(こくじん)たちが反抗し、大塔合戦がおこり、長秀は都へ逃げ帰る。長秀の将坂西(ばんざい)長国は大塔城(篠ノ井)で戦死した。桜小路の遊女玉菊と花寿は長国と馴染みを重ねていたので、戦場で長国の死骸を尋ね当てて時衆に供養してもらい、善光寺に帰って尼になって菩提を弔ったという。善光寺町の花街権堂は近世中期以後に発達したもので、中世には桜小路が花街だったらしい。