社寺の伽藍のようす、人びとの参詣のさまなどを描いた絵図を「参詣曼荼羅(まんだら)」という。「善光寺参詣曼荼羅図」は大阪府藤井寺市小山善光寺のものがもっとも有名だが、いくつもある善光寺縁起絵巻のなかに描かれている善光寺境内図も似たような性格をもっている。「絵解き」をして人びとに参詣をすすめるための「案内図」でもあるから、ある程度の写実性もあるだろう。小山善光寺の図では、南のはずれに犀川があり、人の乗っている渡し舟がある。つぎに裾花(すそばな)川があり、二つの川のなかに多層塔二基が描かれているが、これは苅萱山の多層塔だろう。裾花川には橋があり、橋を渡ると左右に堂がある。十念寺(左)と往生院だろうか。左手には大木を川から引きあげている人びとがいる。右手には見世棚造り、茅葺(かやぶ)きの民家数軒が見える。境内には五輪塔がたくさんあり、五輪塔を抱いて骨堂?へ入ろうとしている人もある。牛を追いかけている老婆もいる(「牛に引かれて善光寺参り」の初見)。垣で囲んだりっぱな宝篋印塔(ほうきょういんとう)もある。現在、善光寺の裏山花岡平には千余の五輪塔が現存、在銘は文明(ぶんめい)十九年(一四八七)から天文(てんぶん)十年(一五四一)までで、天文十年はもっとも新しい様式のものだから、大部分は室町時代に造られたものだろう(『市誌研究ながの』二号)。境内にも多数の五輪塔がある。また福生院出土の板碑(いたび)は永享(えいきょう)十一年(一四三九)の銘があり、また院坊基地には文明十七年、大永(たいえい)三年(一五二三)銘のある板碑がある(『長野市立博物館だより』21号)。山門傍らには応永(おうえい)四年(一三九七)銘の逆修供養の宝篋印塔がある。あるいは小山善光寺本縁起に描かれている石塔かもしれない。
大門町・西長野腰山麓などからも、多数の五輪塔が出土している。大部分、参詣者の逆修供養塔だろう。
これらの石材は多くは西長野郷路(ごうろ)山産の安山岩で、石屋は桜小路つづきの西長野に多く住んでいただろう。明治初年、西長野には一八〇戸中、石屋または石工が三〇戸あり、年間三六五〇駄(一駄は一尺二寸四方の石二つ)を産出していた。
門前町では定期市が開かれ、栗田氏がそれを支配していた。栗田氏は甲府へ移ったのちも、市の支配を許されていた(天正九年七月四日付け武田勝頼定書等)。近世初期大門町の市のことで領民が代官を訴えたとき、代官高橋円喜は「栗田殿のときは市役として薪一駄ずつ納めさせていた」と答えている。商人頭が市役を取り立てるのも、中世から始まったことだろう。
平成七年(一九九五)大門町西側の一部が道路拡幅のため発掘調査され、室町時代の住居、穴(室(むろ))、宋銭などが出土した。中世門前町の一部であろう。