戦乱後の復興

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天文(てんぶん)二十二年(一五五三)から永禄(えいろく)七年(一五六四)まで一二年間にわたる川中島の戦いで善光寺町は荒廃した。善光寺町周辺の在銘板碑の紀年の下限が天文二十二年(姫塚)であるのは印象的である。上杉謙信・武田信玄はそれぞれ根拠地に善光寺を建立、仏像・仏具を移した。町民も越後や甲府に移ったものが多い。

 武田領時代末期天正(てんしょう)九年(一五八一)に伊勢御師(おし)宇治久家が檀家に御祓(おはらい)を配りに来たとき、善光寺では代官一人に配っただけなのに、長沼では在城の武士六人、城下の人六人に配っており、この地方の中心地が長沼城下へ移っていたことが明白である。しかし、善光寺町がまったく壊滅してしまったわけではない、弘治(こうじ)二年(一五五六)水科修理亮(みずしなしゅりのすけ)は善光寺往還のため、一月に馬一匹の諸役を免除されている。水科家は近世には町年寄になっている。善光寺宿問屋を勤めた小野家の初代は天正三年に死んでおり、やはり武田時代には善光寺町にいたらしい。

 天正十年武田氏は滅亡、一時織田信長の将森長可(ながよし)が海津城に入ったが、織田信長が殺されたあとは、上杉景勝が北信濃を占領、妙観院が大勧進として善光寺復興につとめた。天正十八年、武蔵熊谷寺の白道(幡随意(ばんずいい))は豊臣秀吉の小田原征伐の戦乱を避け、学友の寛慶寺住職春虎を頼って善光寺で百日の修行をおこなっている。

 慶長(けいちょう)三年(一五九八)上杉景勝が会津へ移封され、北信濃の武士の大部分が随行、兵農分離が実現した。

 川中島地方は大部分が豊臣領になり、善光寺付近は石川備前守光吉によって検地された。八月に本尊が京都から帰された。武田信玄が甲府へ移してから四二年目である。豊臣秀吉が甲府から京へ移していたが、秀吉の病が重くなっだので、本尊を信濃へお帰しすることにした。秀吉は本尊が京都を出発した翌日死んだ。翌年、秀頼が如来堂を修理した。

 慶長五年の関ヶ原の戦いにより徳川政権はゆるぎないものとなり、同六年、家康は善光寺に寺領四ヵ村を与えた。このうち長野村が古来の門前町の地で、ここに新しい善光寺町が発展した。