慶長六年、徳川家康は善光寺に寺領一〇〇〇石を与えた。長野村(二五〇石)、箱清水村(二七四石三升)、七瀬川原(四〇六石一七四)、三輪村の一部(淀ヶ橋と三輪田町)(六九石七九六)。のち、正保(しょうほう)二年(一六四五)三輪村にかわって旭山と平柴村が善光寺領になった。この結果四村と大峰山・旭山が善光寺領となり、明治初年まで変わらなかった。これより先、慶長五年(一六〇〇)二月、徳川家康は腹心の森右近忠政を一三万七五〇〇石で川中島に入封(にゅうほう)させた。忠政は慶長七年八月から十月にかけて領内総検地をおこなった。その結果、いままでの約一四万石から一挙に一九万石と五万石以上も石高が増加した。右近検地といってきびしい検地の例にあげられる。川中島地方の村々の石高はこのときに決められた石高が基本となった。ただし善光寺領は前年七月に与えられていたのでこの検地は受けなかった。
旧長野市の村々の石高はつぎのとおりである。
長野村二五〇石(二五〇)、箱清水村二七四石三升(二七四余)(以上善光寺領、石川光吉の検地)、茂菅(もすげ)村一二五石一斗二升六合(一二七余)、腰(越)村二七九石六斗九升二合(二八三石余)、妻科村六三一石三斗五升一合(六三一石余)、豊(問)御所村一八三石一斗二升(一八八石余)、権堂村六七〇石一斗八升三合(六七〇石余)。( )内は元禄(げんろく)十五年(一七〇二)調査の「元禄郷帳」の石高だが、長野・箱清水・妻科・権堂の四村はぜんぜん増えておらず、他の三村もほんの数石の増加である。善光寺領は森検地を受けなかったが、隣接する妻科村・権堂村なども、検地はなかったらしい。「長野」は元亀(げんき)元年(一五七〇)の文書に見え、「妻科」は神社名として平安時代の文献に見えるが、「村」として文書に出てくるのは森検地がはじめてで、他の諸村も初見である。
「箱清水」は「箱池」から出る清水から出た村名という。腰村は善光寺大本願上人が京から下向した輿(こし)の人が住みついたところというが明らかでない。石材の山として著名な郷路(ごうろ)山の中腹を「越し」てくるためか、あるいは中腹の意味の「腰」か。豊御所(とよごしょ)はここにあった「後庁」(国府役所)の美称であろう。のち問御所と書くようになったが、「トヨゴショ」と読んでいた。
森忠政はわずか三年間で移封、松平忠輝かかわって慶長八年(一六〇三)三月から元和(げんな)二年(一六一六)六月まで一五年余川中島地方を支配した。
松平忠輝は家康の六男、慶長八年二月、海津城一九万石を与えられた(海津城は待城・松城となり、正徳元年(一七一一)から松代城になった。)。一二歳の少年のため、実権は大久保長安が握っていた。海津城代は花井吉成だった。長安・吉成はともに武田氏の旧臣で新知識をもつ有能な人びとだった。忠輝は慶長十五年川中島に併せて越後の大半を与えられ、六〇万石を領した。花井吉成は犀川から引水して川中島三堰を作り、また裾花(すそばな)川を改修して、いままで高田方面に流れていた川を白岩のところから南へ流し、鐘鋳(かない)堰を作つたといわれる。鐘鋳堰はそれまでにもうできていたらしいが、このとき大改修したのだろう。
長安も佐渡金山の開発などに功績が多かったが、キリシタンとの関係などが疑われ、慶長十八年に死んだあと、財産を没収されこどもはみな殺された。忠輝も元和(げんな)二年領地を取り上げられ、吉成の子主水(もんど)吉勝も改易された。
忠輝改易の元和二年に川中島地方の領主のあり方はかなり変わった。武田氏の信濃支配以来川中島地方は大体同じ領主に治められていた。この年七月松平忠昌(ただまさ)が一二万石で松代城主となり、同月、北信濃に初めて天領(幕府直轄領)ができた。ほかに大名領・旗本領などもいろいろできた。