松代領

82 ~ 82

近世初期、松代城主は何家も変わったが、元和(げんな)八年真田氏が入ってからは幕末まで変わらなかった。

 忠輝のつぎの松代城主松平忠昌は元和二年七月から同四年四月まで一年一一ヵ月、つぎの酒井忠勝が同八年十月まで四年七ヵ月と短期間だった。忠勝のときから一〇万石になった。

 松代真田藩の石高は一〇万石、ほかに新田が二万石ほどだった。長野町の区域にあった松代領の村は妻科(つましな)(天保五年六三七石)・腰(二八八石)・茂菅(もすげ)(一二八石)の三村だった。妻科村は本郷は妻科神社周辺にあったが、北国街道(ほっこくかいどう)(現在中央通り)沿いに後町・新田・石堂の三つの分村ができ、後町は寛政(かんせい)九年(一七九七)本村から分立して別に村役人を置くようになった。狭い道をはさんで西側は松代領の西後町、東側は善光寺領東後町であった。西後町の南につづく新田組(新田町)も道の向かいは天領(のち越後椎谷(しいや)藩領)問御所村だった。この影響は現在におよび、東後町・西後町・新田町・問御所町はみな別々の区である。