幕府の直轄(ちょっかつ)領を天領ともいった。信濃の天領は正保(しょうほう)四年(一六四七)信濃全体約五八万石中六万石(約一一パーセント)、明治元年(一八六八)八〇万石中二二万石(約二七パーセント)だった。長野町では権堂・問御所(といごしょ)の両村が天領だった。権堂は慶長(けいちょう)八年(一六〇三)天領になり、天保(てんぽう)二年(一八三一)以降天領のまま松代藩の預かり領となった。預かり領というのは藩が預かって民政をおこない、本年貢は幕府へ納め、付加税の類は藩の収入にする制度である。問御所村は元和(げんな)二年天領になり、寛政(かんせい)四年から越後椎谷(しいや)藩領になった。椎谷藩主は須坂藩主堀氏と同族でこの年一万石のうち五〇〇〇石を信濃高井・水内郡で与えられ、陣屋を六川(ろくがわ)(小布施町)に置いた。水内郡では問御所村のほか中御所村の一部が椎谷藩領になった。また権堂・問御所両村は天和(てんな)二年(一六八二)から元禄(げんろく)十三年(一七〇〇)まで尾張藩の分家松平摂津守(せっつのかみ)義行領になりその陣屋が権堂に置かれた。その他長野付近では栗田・荒木・中御所(一部)・長沼などの諸村が天領だった。