仮堂のころ

83 ~ 84

如来堂は慶長(けいちょう)五年夏、豊臣秀頼によって再建された。この如来堂は元和(げんな)元年三月三十日、雷火で焼失した。その後仮堂が建てられたが、この堂も寛永(かんえい)十九年(一六四二)五月、西町から出た火災で類焼してしまった。このお堂の再建について、大本願と大勧進との間に争いがおこった。大本願は本堂造営は古来大本願だけでおこなう例であるのに、今回の仮堂造営は、大勧進が両寺協同で建立すべきであると主張しているのは不当だと申したて、大勧進は、本堂造営は、古来から両寺協力しておこなうのが例であると主張した。結局仮堂の造営は、幕府の寺社奉行の命で両寺が協同でおこなうことになり、慶安(けいあん)三年(一六五〇)に仮堂ができあがった。如来が帰られてから五三年目、この間には大坂の役などもあり、平和がもどったといっても、まだ復興途中の時代で、参詣者もそれほどは増えなかっただろう。

 寛永(かんえい)十六年下大門町は「御門前の家数は、もとは七、八百軒あったのに、いまの代官になってからたくさんつぶれて、今は四〇〇軒ほどになってしまった」と訴えた。これに対し代官高橋円喜は、「家数は前のとおりで、一軒もつぶれていない」と返答している。正確ではないが、四〇〇軒、二〇〇〇人くらいの町だったのだろう。

 この四〇〇軒、二〇〇〇人という数は、門前町としてはひじょうに多い数である。明治三年(一八七〇)における甲斐(山梨県)身延(みのぶ)町の人口は寺内二〇二人、町方九一三人だった。能登(石川県)総持寺の門前は、文化十二年(一八一五)に五五軒、二四六人である(『近世寺院門前町の研究』)。善光寺町はすでに中世以来、北信濃の政治・経済の中心地として、伝統的な強みをもっていたのである。