近世には八町両御門前といわれる町々があり、町方の庄屋が一〇人あった。八町とは①大門町②後町③横町④北之門町(のち新町・伊勢町)⑤東町(東之門町・武井町)⑥西町(阿弥陀院町・西之門町・天神宮町)⑦岩石(がんせき)町⑧桜小路(狐池(きつねいけ)・上西之門町)で、両御門前とは①横沢町②立町である(かっこ内は、たとえば東町庄屋がかっこ内の二町も支配することを示す)。
つまり長野村のなかに十いくつもの町があったことになる。これらの町は長野村のなかにあるのだが、みな町だったので農村の狐池だけを長野村ということもあり、桜小路庄屋矢島家が長野村庄屋を兼ねていた。町屋のない狐池をも支配していたためである。
天神宮町は通称長野町ともいった。長野の地名がそのまま通称の町名になっていた。北之門町は元禄(げんろく)年間(一六八八~一七〇四)に善光寺本堂の新敷地を作るさい、新敷地になったので、北国(ほっこく)街道出口に移転して新町になった。
近世善光寺町のことは、第五節第二項近世の産業のところで述べる。
善光寺領の人口は享保(きょうほう)六年(一七二一)に五〇四九人、文化・文政のころ(一九世紀前半)にいちばん多くなって、文政(ぶんせい)十一年(一八二八)に八〇四八人になっだのが最高である。天保の飢饉(ききん)で減少し、善光寺大地震で被害を受けたが復興し、幕末の元治(げんじ)元年(一八六四)には七七〇九人だった。これは町だけでなく寺領三ヵ村(箱清水・七瀬・平柴)の人口(一〇〇〇人前後)を含んでいる。
善光寺町は善光寺領だけではない。西後町・妻科(つましな)村新田組・同村石堂組・権堂村・問御所(といごしょ)村は、事実上善光寺町の一部だった。
西後町は妻科村の一部だったが、寛政(かんせい)九年(一七九七)に独立した。西後町・新田・石堂は北国(ほっこく)街道、善光寺表参詣道沿いの集落で、石堂の一部まで門前町がつづいていた。それらを含めると、人口は約一万くらいだった。
絵(写真39)は弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震の直前の町のようすで、石堂から北を見たところ、町並みは石堂の苅萱(かるかや)堂のあたりから始まり、その南は石堂たんぼといわれる農地だった。もう一枚の絵(写真40)も、だいたい新田町問御所あたりの門前町の入り口である。
日本の人口は近世初期、一七世紀には増加率が大きいが、一八世紀前半は停滞、一九世紀にはまた上昇に転じたという。
善光寺領も近世前期には急激に増加し、一八世紀前半には増加のスピードがやや鈍ったが、一九世紀前半、文化・文政期に最高になり、享保六年に比べて六割近い人口増になった。享保六年を一〇〇とする人口比は、弘化三年(ただし善光寺領はこの年の統計がないので、安政五年で代用。大差ない)に全国は一〇三、信濃は一一五、松代藩領は一三六、善光寺領は一五四で、全国平均からみて、人口の増加率は非常に高い。