長野町から長野市へ

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明治四年(一八七一)六月、県庁が中野から長野に移され、県の名も長野県と改められた。七月に廃藩置県が実施され、東北信は長野県、中南信は飛騨国(ひだのくに)とあわせて筑摩県となり、県庁は松本に置かれた。しかし筑摩県は県庁焼失がきっかけで、明治九年八月に廃止され、長野県に合併された。長野は明治初年は人口ほぽ一万ほどだったが、明治二十年にはほぼ二倍になった。

 明治二十一年四月町村制が公布され、二十二年四月、長野町・南長野町・西長野町・鶴賀町・茂菅(もすげ)村の四町一村が合併して新しい長野町ができた。同年六月、長野町は区条令を定め、つぎの三一の区をきめた。

茂菅 西長野 桜枝(さくらえ)町 狐池(きつねいけ) 箱清水 横沢町 上下西之門(にしのもん)町 立(たつ)町 元善(もとよし)町 東之門町 伊勢町 新町 河原崎横大門 岩石(がんぜき)町 横町 東町 大門(だいもん)町 西町 栄町 長門(ながと)町 旭(あさひ)町 西後町 妻科 県(あがた)町 諏訪町 後町 新田 石堂(いしどう) 問御所(といごしょ) 権堂 田町 遊郭

 このうち桜枝町・栄町・長門町は、近世には桜小路・阿弥陀院町・天神宮町といっていたのを、明治七年に改称、元善町も、堂庭(どうにわ)と称していて町名がなかったのを、同年に町名をつけた。遊郭は明治十一年に新設された。

 旭町は明治十二年、県町は同年県庁(今の信大教育学部)に通じる道路が開かれ、明治二十三年ころ町になった。


図6 明治12年の長野町全図

 明治三十年市制実施のときは三六区になり、大正五年(一九一六)にはつぎの四三区になった。

石堂町南 石堂町北 末広(すえひろ)町 新田町 西後町 諏訪町 南県町 県町 妻科 問御所町 権堂町 田町 鶴賀新地東 鶴賀新地西 千歳町南 千歳町北 東後町 大門町上 大門町南 東町 横町 岩石町 伊勢 町 新町 河原崎 東之門町 元善町 箱清水 横沢町 上西之門町 西之門町 西町上 西町南 旭町 長門町 若松町 立町 栄町 桜枝町 花咲(はなさき)町 狐池 西長野町 茂菅

 大門町・西町がそれぞれ上・南に分かれたのは、近世からこの両町が上・下に分かれて行事をする習慣だったからで、当時まだこの両町の経済力の大きかったことを示している。

 明治四十一年、石堂町を二分し、古川堰を境に、石堂北区・南区とし、大正六年から、北石堂町・南石堂町とした。明治四十二年に遊郭(鶴賀新地)が東と西にわかれ、東鶴賀町・西鶴賀町となった。千歳町通りは明治二十三年開通、大正二年、千歳町を二分し、南八幡川を境に上千歳町・南千歳町とした。末広町は明治二十一年、長野駅に通じる道として石堂から分離した。